2013年1月28日

新年のごあいさつ

 先日は、法人後見の承認の喜びで興奮してしまい、新年一発目の書き込みというのに、すっかりご挨拶を忘れておりました。
 改めまして、皆さま、平成25年もよろしくお願い致します。

 ちなみに、23日の承認後、1月25日に「一般社団法人 萩長門成年後見センター」を法人として成年後見人とする後見開始の審判が出ました。同センターの第1号の選任事件です。
 これから、身を引き締めて、社会福祉士さんと一緒に、同センターの事務局とも協力の上、一致団結して成年後見人の職務に当たって行きたいと思います。萩・山口法律事務所ともども、よろしくご支援ください。

 で、新年のご挨拶といえば、今年の抱負ですよね。
 昨年に引き続き、「ロックかロックでないか」をテーマに仕事をしていきたいとは思いますが、今年は、もう少し具体的なお話を。

 昨年末、私的な事情で早めに大阪の実家に戻りました。普段、こっちではテレビを観ることがほとんどないのですが、実家ですることと言えば、家でごろごろと寝て、テレビを見ることばかり・・・。実家に帰ったら時間があるだろうと、仕事を少しと、かなり分厚い小説を1冊持って帰ったのですが、どちらもなかなか手をつける気がしない。それで、深夜までテレビ三昧の日々。
 特に大阪は、年末、漫才などのお笑い番組が多く、昼間はお笑い番組、深夜は昔の映画の再放映です。
 そんな生活を送っている中、たしか、紅白の後でしたか、NHKで「プロフェッショナル」の再放送が3話くらい続けてやっており、全部見てしまいました。そこで登場された3人の方がおっしゃていた、それぞれのプロフェッショナルとは・・・。
 一人目の方は、「まずは、自分の仕事を楽しむこと。そして、たとえ小さなことでもいいから、常にチャレンジし続けること。」というようなことをおっしゃっていました。
 二人目の方は、「自分の出した結果でしか、人は自分を評価しないし、逆に、自分は、自分の出した結果でしか、人に語ることができない。」ということを話されており、そのようシビアな世界で生きていく「覚悟」を持った人がプロフェッショナルではないか、という意味のことをおっしゃっていました。
 三人目の方は、「手間を惜しまないこと。」を挙げられておられました。ほんのわずかな違いを修正したり、ほんのわずかな欠陥を修正して最善の状態に導くために、莫大な手間と時間が必要であるとした場合、大抵の人は、そのわずかばかりの違いを気にすることなく、そこに手間を掛けることをしないのではないでしょうか。しかし、その方法が最善と思うのであれば、惜しみなく時間と手間を注ぎ込むのが「プロフェッショナル」なのだと理解しました。
 ということで、この御3方の言葉を私の今年の抱負にしたい思います(安易)。

 弁護士という仕事は、人の悩みに接する重い仕事ではありますが、弁護士本人が悩んで落ち込んでも仕方ないし、それでよい方向に物事(事件)が向かうわけもないでしょうから、まずは「自分の仕事を楽しむ」こと。そして、現在の状況に満足せず、常にチャレンジし続けること。今の現状を一歩でも前進させようとチャレンジをし、また、これまでやってなかった新しいことにも挑戦すること。そのことが「仕事を楽しむ」ということにも繋がるのではないかと思いますしね。
 あと、やはり、この仕事、言うても結果が全てです。親切、丁寧、早い!安い!などと売り文句を幾ら並び立てても、あるいは、皆さまから幾らお褒めの言葉をいただいても、結果が出せなければ意味がないことは言うまでもありません。ですから、私としても、依頼者にとって最善と思える結果が出せることを一番の獲得目標として仕事をしています(その意味で、最初から、依頼者のご希望に添えそうにないと考える依頼については、その旨をしっかりご説明し、お断りしています。)。そして、本年は、より一層、「結果」にこだわり仕事をしていきたいと思います。ルーティンに陥ることなく、固定観念にとらわれることなく、常に自己の仕事内容を検証しつつ、改善の余地がないか、他に取りうる良い方法がないかを模索しながら仕事に臨む所存です。
 そして、そのためには、「手間を惜しまないこと」が一番大切だと感じています。何か気になったり、引っかかることがあったとき、そこを念のために調べてみるとか確認してみるとか、他人が勘違いしそうな表現(部分)や分かり難いかなと思う表現(部分)があった際に、それで良しとせず、改良を行うとか。そういった細部にこだわり、手間を惜しまず仕事をして行きたいと思います。少しニュアンスが外れてしまうかもしれませんが、「神は細部に宿る」という言葉があります。私は、この言葉を、たとえば建築デザインなどで、全体の大まかなデザインの優美さのみを追求するのでなく、骨組みの接合部分とか、そういった細部にもこだわってデザインに配慮した方が、結果、全体的な「美」に資するのであって、細部を考えないデザインは、全体として美しくないという結果に陥ってしまう、というような意味だと理解しています。細部にこだわらないデザインは、たとえ、ぱっと見の全体の「見た目」が良く見えても、結局、建築としては脆弱な、形だけのシロモノになってしまうのではないでしょうか(そして、やはり「美的」にも美しくないはずです。)。私の仕事でも、堅牢な建物を構築するかのような堅実な仕事をしようと思えば、細部にこだわり、「手間を惜しまないこと」が必要だと思いますし、私は、そのような仕事を心がけたいと思います。

 以上が、私の今年の抱負のようなものです。
 が、最後に一言(といっても、以下も長いですが)。
 「いい仕事をしたい」というのは、仕事をする以上、誰でも思う、ある意味当然のことであるかもしれません。ですが、そもそも仕事をするには、そのためのモチベーションが必要なのではないでしょうか。
 人はなぜ、仕事をするのか?
 それを言いだすと、答えの見つからない泥沼に足を踏み入れそうな気がします。それこそ、人はなぜ生きるのか?とか、人生とは何ぞや?とか・・・。まあ、そんな難解な哲学的な議論をするつもりはないのですが、昨年末、実家で深夜にやっていた映画の再放映を見ていて、そこでの主人公の台詞を聞いて、何となく、私の中で腑に落ちました(論理とか理屈でなく)。年末の深夜に放映されていた何度も再放映されている映画で、名作映画というわけでもなく、「ドクター・ドリトル」という、エディー・マーフィー主演のコメディ映画でした。それなりにヒットして、続編もたくさん作られた映画ではあるものの、こういった大衆娯楽映画はあまり私の趣味でなく、普段なら見ることはないのですが(いわゆる単館系のおされな映画専門です)、深夜、眠くもなく他に見る番組もなかったことから、徒然に見ておりましたところ(いや、これが意外に面白かった)、その中で、動物と話ができるようになってしまったドリトル先生が、脳の病気(腫瘍?)を患っている移動サーカスのトラを何とか助けてあげようと奮闘します。しかし、ドリトル先生は、一時、(動物と話ができると言ったことから)精神病院に入れられ、トラも世をはかなんで(かなり鬱のトラです)、どうせ人間が自分のことを助けてくれるはずがないと諦観し、死を覚悟します。そんな中、何とか精神病院を出てきたドリトル先生は、トラとの約束を守るために、サーカスのトラの檻のもとに駆けつけるのです。トラは、すっかり助かる望みを捨てており、ドリトル先生に、「何しに来たんだ、帰れ」と言います。それに対し、ドリトル先生はこう言います。「全世界では、いまこの瞬間にも、何千というトラが死んでいるかもしれない。そのトラたちの命を救うことは僕にはできない。でも、今、目の前に、君がいて、僕は君を助けることができるんだ。だから、僕は、君を助けに来た。」と。(すみません、正直にいいますが、晦日の深夜、かなりお酒を飲んで酔っ払っていたので、ここのところの台詞が確かか否か、記憶が定かではありません。ただ、お酒のせいだか何だか、この台詞に素直にグッときてしまったのは確かです。)
 私は、幸い、弁護士という資格を有して仕事をしており、「法律」を楯と武器にして、資格がなければできない特殊な仕事を請け負うことができます。そこに、困った人が目の前にいて、助けを求めており、私が弁護士という資格をもって、その困った人の助けになることができるというのであれば、私は、何とかその人の力になりたいと思います。全ての困った人の助けとなることはできないでしょうし、その気もないですが、そして、面倒な事件を他の誰かがやってくれるのであれば、できればその他の誰かにやっていただきたいと思うのですが、目の前に困った人がいて、助けを求めており、私にその人を助けることが可能であるのなら、私は、自分のなすべき仕事をしたいと思います。
  それが、私の仕事のモチベーションです。