皆さまお久しぶりです。
さて、新年のご挨拶もしないまま、季節は過ぎ去り、早や桃の節句となってしまいました。
昨年1月23日に、一般社団法人萩長門成年後見センターという法人が、山口家庭裁判所より法人後見の承認と名簿への登録がかなったという喜びのご報告を書き込みさせていただいたのですが、本日、平成26年3月3日、一般社団法人萩長門成年後見センターに初の後見報酬が出ました!
家裁の承認後、 昨年1月25日に法人後見の第1号を受任し、一年経ってようやく報酬をいただくことができ、まさに感無量です。
まだまだこれからですし、この後見報酬は、決して多くない成年被後見人さんの財産の中から支払われるのだということも肝に銘じて、日々精進していきたいと思います。
2013年7月3日
権利擁護支援フォーラムin 萩
一般社団法人萩長門成年後見支援センター(高齢者・障がい者の相談支援、成年後見の申立援助等)と一般社団法人萩長門成年後見センター(法定後見を受任)が加入している全国組織で、全国権利擁護支援ネットワーク(代表:國學院大學法科大学院教授 弁護士佐藤彰一)という団体があります。
その全国権利擁護支援ネットワークが全国7ブロックの地域で年に1回開催している地域フォーラムがあるのですが、今年、中国・四国ブロックの地域フォーラムが、ここ萩で開催されます。
「権利擁護支援フォーラムin萩」の日程と場所は、
日 時 平成25年11月9日(土)
午後1時30分から午後4時30分
場 所 サンライフ萩 多目的ホール
テーマ
「地域における権利擁護のネットワークを進めよう!(成年後見の利用を中心に)」
定 員 280名
参加費 無料
です。申込み方法や、詳しいフォーラムの内容については、改めてご報告します。
その全国権利擁護支援ネットワークが全国7ブロックの地域で年に1回開催している地域フォーラムがあるのですが、今年、中国・四国ブロックの地域フォーラムが、ここ萩で開催されます。
「権利擁護支援フォーラムin萩」の日程と場所は、
日 時 平成25年11月9日(土)
午後1時30分から午後4時30分
場 所 サンライフ萩 多目的ホール
テーマ
「地域における権利擁護のネットワークを進めよう!(成年後見の利用を中心に)」
定 員 280名
参加費 無料
です。申込み方法や、詳しいフォーラムの内容については、改めてご報告します。
2013年6月18日
ぽつねん
最近、本業の方は新規の相談と受任を控えさせていただき、手持ち事件の処理に勤しんでいるのですが、それとは別に、弁護士会の委員会活動や法人後見事業の方も忙しく、今月の各週末にはほぼ仕事が入っており、週末もゆっくりできていないのが現状です。
そんな6月の土曜日、久しぶりに北九州にお出かけしました。小林賢太郎さんのソロコント「POTSUNEN」を観に行ってきましたよ。
しかし、今回は、これを観に行ったことの感想ではありません。
「ポツネン」を観に行く前日の金曜日の夜は、山口市湯田で弁護士会の会合があり、会合の後は懇親会で、この日は湯田のビジネスホテルにお泊り。翌日の土曜日の朝には少しお酒が残っている感じがしたので、昼食は身体にやさしく、出来るだけ野菜たっぷりの食事をと、北九州に向かう前に、山口市内にある‘ベジタブル喫茶’「Toy Toy」でお昼ご飯をいただきました。
この「Toy Toy」さん、自然派の食材を活かした自然派の料理が‘売り’のようですが、その辺の情報にはあんまり私は詳しくなく、正確でないかもしれないので、料理の内容には踏み込みません(この日いただいたランチはもっちりとした玄米ご飯を始め、おかずもどれも美味しかったです。)。お店の雰囲気とか、置いてある本などがどれも私の好みにぴったりで、とても居心地のよいお店なのです。ちなみに、店主が猫がお好きなのか、猫関係の書籍がたくさん置いてありました。
そんな数ある書籍の中、太宰治の『人間失格』にも並ぶ文学青年たちのバイブル(あくまで私見)ともいえる梶井基次郎の『檸檬』が置いてあるではないですか。この短編小説、かなり以前に読んだことはあるものの、「八百屋でふと買ってしまった檸檬を本屋に積み重ねられた本たちの上にそっと置いて帰る」というあらすじだけしか覚えていなかったことから、ランチが届くまでの間、パラパラと読み返してみることにしました。
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧(おさ)えつけていた。」との一文から始まるこの掌編は、以降で、「以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。」と、その鬱々とした主人公の独白が綴られます。そして、物語が肝心の‘檸檬’へと向かう話の転換点の、この小説が始まって3ページ目のところで(ちょうど、ランチのスープが私のテーブルに置かれた時に)、「ぽつねん」という一語が私の目に飛び込んで来たのでした。
正確にその部分を引用すると、こうです。
「ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へという風に友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取残された。」
そして、主人公は、「私はまた其処から彷徨い出なければならなかった。」と追い立てられるように街から街を歩いて、以前からの一等お気に入りのお店で‘檸檬’を手に入れることになるのですが、この主人公が、空虚な空気の中に一人取残された「ぽつねん」という心情と、小林賢太郎の「ポツネン」公演にただよう詩情とがぴったり重なり合い、小林賢太郎は、「ポツネン」というお題目を梶井基次郎の「檸檬」から取ったに違いない!と、確信めいた直観(ひらめき?思いつき?)を感じたのでした。
さて、この事の真偽はさておき(今のところ、小林賢太郎が梶井基次郎の『檸檬』を愛読していたとの事実は掴んでいません。CMで『人間失格』を読んでいたシーンがあったそうですが。)、私がいたく感動したのは、「POTSUNEN」を観に行くまさにその直前に、私がたまたま手にした本の中に、「ぽつねん」という言葉を見い出したということなのです。
もしも、この日、私が、このお店に入らなければ、『檸檬』を手に取らなければ、改めて「檸檬」という掌編を読み返そうと思わなければ・・・。そう考えると、無数の偶然が重なりあって、この日、私は「ぽつねん」という一言に巡り合ったといえるのではないでしょうか。そして、私が「ぽつねん」という言葉を見つけ出したことは、もはや単なる偶然とは言えず、何かの縁、「運命」であったのではないかとすら思えるのです。大げさに言うと、ここに何らかの宇宙―神―の意思が働いているのではないかと・・・。いや、そこまで言うと、パラノイア(偏執狂)か何かじゃないかと疑われてしまいかねませんね(笑)
まあ、そういう、壮大な?話がしたい訳ではなく、何かこういった小さな偶然に出会ったとき、無性に幸せというか幸福感を感じません?!という(非常に個人的な小さい)お話なのです。
人間(ひと)は、無数の大小さまざまな偶然との出会いの中で生きているのだと思います。その偶然に出会って、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、笑ったりするのでしょう。その積み重ねが「生きていくこと」だと言い換えることができるかもしれません。その偶然の中の、何に喜び、何に悲しむかがその人を定義し、その人を形作ると言っても過言ではなく、そう考えると、「起きたことの全てが正しい」と、思わず、大した考えもなく無批判に全てを肯定してしまいたくなることもあります。とはいえ、世界で現実に起こっていることの全てを私が知っている訳でもなく、人ひとりの一生の全てを知り尽くした訳でもないので、そこまで人生達観できないですし、それ以上に、複雑でやっかいでどうしようもなく残酷で無情なのが人の世ですから、<無自覚>や<無批判>に全てを肯定することなく、ただただ、起きた「偶然」に驚き、心(喜怒哀楽)動かすことができれば、それが生きていることなのかなあ、と考えたりもします。
おっと、非常にパーソナルな小さな話から、また、思いもかけない大きな話になってしまいそうですが、ここは、「小さな偶然」への驚きの話で満足しきれない(「POTSUNEN」と「ぽつねん」繋がりの話でやめときゃあいいんですがね)、私の悪い癖と、ご容赦ください。「あんたの個人的な体験とかそれに対する感想とか話されてもねえ」という私の中にあるブログ一般に対する批判的な気持ちからか、嫌でも、無理でも、どうにか個人のパーソナルな体験の紹介や感想だけには留まらず、そこから何か一般化した教訓めいたお話を導いて終わらせようという、そんな浅はかな考えから出た、こじつけめいた結論に他なりません。
そのことに何ら特別な意味がある訳ではないのでしょうが、自分でもよく分からない「偶然」に出会ったことから、私としては、その「驚き」をどうしても他人に伝えたかっただけなのですが、もしかしたら、その「偶然」とか「驚き」とか、それって、「生きるってことそのもの」なのかも・・・なんて考えたり、考えなかったりした6月のとある週末でした。やっぱりパラノイアかなあ・・・。
その帰りに山口市のブック・オフで『檸檬』を購入(105円)。今回の引用はこれに基づいています。
が、ネットの青空文庫でも、『檸檬』、ありました・・・。
追記2:梶井基次郎は、最初の作品集『檸檬』を刊行した翌年、31歳の若さで肺結核により没したそうです。
ちなみに小林賢太郎は私と同じ4月生まれの私より一つ年下で、今年、ジョン・レノンが没した年齢の40歳。ちなみに松田優作とカフカが亡くなったのも40歳。
追記3:「パラノイア」:自らを特殊な人間であると信じたり、ある人から強く愛されている、隣人に攻撃を受けているなどといったひとつの異常な妄想に囚われる精神病の一型。強い妄想を抱いている、という点以外では人格や職業能力面において常人と変わらない。偏執病、妄想症。
2013年4月20日
少年と私とソクラテス
今日、事件で重度の障害が残った少年と会って話をした。少年は、「こんな体になって生きているなら死んだ方がよかった。なんで生きているか分からない。」とつぶやいた。
私は、答えに窮した。だけど、少年。私だって、なんで自分が生きているのかなんて分からない。けれども、少年も私も、今、生きている。生きているのだから、生き続けて、なんで死なずに生きているのかの答えを見つけようじゃないか。だから、少年。その答えを見つけるまでは、生き続けなければいけない。
私は、答えに窮した。だけど、少年。私だって、なんで自分が生きているのかなんて分からない。けれども、少年も私も、今、生きている。生きているのだから、生き続けて、なんで死なずに生きているのかの答えを見つけようじゃないか。だから、少年。その答えを見つけるまでは、生き続けなければいけない。
2013年1月28日
新年のごあいさつ
先日は、法人後見の承認の喜びで興奮してしまい、新年一発目の書き込みというのに、すっかりご挨拶を忘れておりました。
改めまして、皆さま、平成25年もよろしくお願い致します。
ちなみに、23日の承認後、1月25日に「一般社団法人 萩長門成年後見センター」を法人として成年後見人とする後見開始の審判が出ました。同センターの第1号の選任事件です。
これから、身を引き締めて、社会福祉士さんと一緒に、同センターの事務局とも協力の上、一致団結して成年後見人の職務に当たって行きたいと思います。萩・山口法律事務所ともども、よろしくご支援ください。
で、新年のご挨拶といえば、今年の抱負ですよね。
昨年に引き続き、「ロックかロックでないか」をテーマに仕事をしていきたいとは思いますが、今年は、もう少し具体的なお話を。
昨年末、私的な事情で早めに大阪の実家に戻りました。普段、こっちではテレビを観ることがほとんどないのですが、実家ですることと言えば、家でごろごろと寝て、テレビを見ることばかり・・・。実家に帰ったら時間があるだろうと、仕事を少しと、かなり分厚い小説を1冊持って帰ったのですが、どちらもなかなか手をつける気がしない。それで、深夜までテレビ三昧の日々。
特に大阪は、年末、漫才などのお笑い番組が多く、昼間はお笑い番組、深夜は昔の映画の再放映です。
そんな生活を送っている中、たしか、紅白の後でしたか、NHKで「プロフェッショナル」の再放送が3話くらい続けてやっており、全部見てしまいました。そこで登場された3人の方がおっしゃていた、それぞれのプロフェッショナルとは・・・。
一人目の方は、「まずは、自分の仕事を楽しむこと。そして、たとえ小さなことでもいいから、常にチャレンジし続けること。」というようなことをおっしゃっていました。
二人目の方は、「自分の出した結果でしか、人は自分を評価しないし、逆に、自分は、自分の出した結果でしか、人に語ることができない。」ということを話されており、そのようシビアな世界で生きていく「覚悟」を持った人がプロフェッショナルではないか、という意味のことをおっしゃっていました。
三人目の方は、「手間を惜しまないこと。」を挙げられておられました。ほんのわずかな違いを修正したり、ほんのわずかな欠陥を修正して最善の状態に導くために、莫大な手間と時間が必要であるとした場合、大抵の人は、そのわずかばかりの違いを気にすることなく、そこに手間を掛けることをしないのではないでしょうか。しかし、その方法が最善と思うのであれば、惜しみなく時間と手間を注ぎ込むのが「プロフェッショナル」なのだと理解しました。
ということで、この御3方の言葉を私の今年の抱負にしたい思います(安易)。
弁護士という仕事は、人の悩みに接する重い仕事ではありますが、弁護士本人が悩んで落ち込んでも仕方ないし、それでよい方向に物事(事件)が向かうわけもないでしょうから、まずは「自分の仕事を楽しむ」こと。そして、現在の状況に満足せず、常にチャレンジし続けること。今の現状を一歩でも前進させようとチャレンジをし、また、これまでやってなかった新しいことにも挑戦すること。そのことが「仕事を楽しむ」ということにも繋がるのではないかと思いますしね。
あと、やはり、この仕事、言うても結果が全てです。親切、丁寧、早い!安い!などと売り文句を幾ら並び立てても、あるいは、皆さまから幾らお褒めの言葉をいただいても、結果が出せなければ意味がないことは言うまでもありません。ですから、私としても、依頼者にとって最善と思える結果が出せることを一番の獲得目標として仕事をしています(その意味で、最初から、依頼者のご希望に添えそうにないと考える依頼については、その旨をしっかりご説明し、お断りしています。)。そして、本年は、より一層、「結果」にこだわり仕事をしていきたいと思います。ルーティンに陥ることなく、固定観念にとらわれることなく、常に自己の仕事内容を検証しつつ、改善の余地がないか、他に取りうる良い方法がないかを模索しながら仕事に臨む所存です。
そして、そのためには、「手間を惜しまないこと」が一番大切だと感じています。何か気になったり、引っかかることがあったとき、そこを念のために調べてみるとか確認してみるとか、他人が勘違いしそうな表現(部分)や分かり難いかなと思う表現(部分)があった際に、それで良しとせず、改良を行うとか。そういった細部にこだわり、手間を惜しまず仕事をして行きたいと思います。少しニュアンスが外れてしまうかもしれませんが、「神は細部に宿る」という言葉があります。私は、この言葉を、たとえば建築デザインなどで、全体の大まかなデザインの優美さのみを追求するのでなく、骨組みの接合部分とか、そういった細部にもこだわってデザインに配慮した方が、結果、全体的な「美」に資するのであって、細部を考えないデザインは、全体として美しくないという結果に陥ってしまう、というような意味だと理解しています。細部にこだわらないデザインは、たとえ、ぱっと見の全体の「見た目」が良く見えても、結局、建築としては脆弱な、形だけのシロモノになってしまうのではないでしょうか(そして、やはり「美的」にも美しくないはずです。)。私の仕事でも、堅牢な建物を構築するかのような堅実な仕事をしようと思えば、細部にこだわり、「手間を惜しまないこと」が必要だと思いますし、私は、そのような仕事を心がけたいと思います。
以上が、私の今年の抱負のようなものです。
が、最後に一言(といっても、以下も長いですが)。
「いい仕事をしたい」というのは、仕事をする以上、誰でも思う、ある意味当然のことであるかもしれません。ですが、そもそも仕事をするには、そのためのモチベーションが必要なのではないでしょうか。
人はなぜ、仕事をするのか?
それを言いだすと、答えの見つからない泥沼に足を踏み入れそうな気がします。それこそ、人はなぜ生きるのか?とか、人生とは何ぞや?とか・・・。まあ、そんな難解な哲学的な議論をするつもりはないのですが、昨年末、実家で深夜にやっていた映画の再放映を見ていて、そこでの主人公の台詞を聞いて、何となく、私の中で腑に落ちました(論理とか理屈でなく)。年末の深夜に放映されていた何度も再放映されている映画で、名作映画というわけでもなく、「ドクター・ドリトル」という、エディー・マーフィー主演のコメディ映画でした。それなりにヒットして、続編もたくさん作られた映画ではあるものの、こういった大衆娯楽映画はあまり私の趣味でなく、普段なら見ることはないのですが(いわゆる単館系のおされな映画専門です)、深夜、眠くもなく他に見る番組もなかったことから、徒然に見ておりましたところ(いや、これが意外に面白かった)、その中で、動物と話ができるようになってしまったドリトル先生が、脳の病気(腫瘍?)を患っている移動サーカスのトラを何とか助けてあげようと奮闘します。しかし、ドリトル先生は、一時、(動物と話ができると言ったことから)精神病院に入れられ、トラも世をはかなんで(かなり鬱のトラです)、どうせ人間が自分のことを助けてくれるはずがないと諦観し、死を覚悟します。そんな中、何とか精神病院を出てきたドリトル先生は、トラとの約束を守るために、サーカスのトラの檻のもとに駆けつけるのです。トラは、すっかり助かる望みを捨てており、ドリトル先生に、「何しに来たんだ、帰れ」と言います。それに対し、ドリトル先生はこう言います。「全世界では、いまこの瞬間にも、何千というトラが死んでいるかもしれない。そのトラたちの命を救うことは僕にはできない。でも、今、目の前に、君がいて、僕は君を助けることができるんだ。だから、僕は、君を助けに来た。」と。(すみません、正直にいいますが、晦日の深夜、かなりお酒を飲んで酔っ払っていたので、ここのところの台詞が確かか否か、記憶が定かではありません。ただ、お酒のせいだか何だか、この台詞に素直にグッときてしまったのは確かです。)
私は、幸い、弁護士という資格を有して仕事をしており、「法律」を楯と武器にして、資格がなければできない特殊な仕事を請け負うことができます。そこに、困った人が目の前にいて、助けを求めており、私が弁護士という資格をもって、その困った人の助けになることができるというのであれば、私は、何とかその人の力になりたいと思います。全ての困った人の助けとなることはできないでしょうし、その気もないですが、そして、面倒な事件を他の誰かがやってくれるのであれば、できればその他の誰かにやっていただきたいと思うのですが、目の前に困った人がいて、助けを求めており、私にその人を助けることが可能であるのなら、私は、自分のなすべき仕事をしたいと思います。
それが、私の仕事のモチベーションです。
改めまして、皆さま、平成25年もよろしくお願い致します。
ちなみに、23日の承認後、1月25日に「一般社団法人 萩長門成年後見センター」を法人として成年後見人とする後見開始の審判が出ました。同センターの第1号の選任事件です。
これから、身を引き締めて、社会福祉士さんと一緒に、同センターの事務局とも協力の上、一致団結して成年後見人の職務に当たって行きたいと思います。萩・山口法律事務所ともども、よろしくご支援ください。
で、新年のご挨拶といえば、今年の抱負ですよね。
昨年に引き続き、「ロックかロックでないか」をテーマに仕事をしていきたいとは思いますが、今年は、もう少し具体的なお話を。
昨年末、私的な事情で早めに大阪の実家に戻りました。普段、こっちではテレビを観ることがほとんどないのですが、実家ですることと言えば、家でごろごろと寝て、テレビを見ることばかり・・・。実家に帰ったら時間があるだろうと、仕事を少しと、かなり分厚い小説を1冊持って帰ったのですが、どちらもなかなか手をつける気がしない。それで、深夜までテレビ三昧の日々。
特に大阪は、年末、漫才などのお笑い番組が多く、昼間はお笑い番組、深夜は昔の映画の再放映です。
そんな生活を送っている中、たしか、紅白の後でしたか、NHKで「プロフェッショナル」の再放送が3話くらい続けてやっており、全部見てしまいました。そこで登場された3人の方がおっしゃていた、それぞれのプロフェッショナルとは・・・。
一人目の方は、「まずは、自分の仕事を楽しむこと。そして、たとえ小さなことでもいいから、常にチャレンジし続けること。」というようなことをおっしゃっていました。
二人目の方は、「自分の出した結果でしか、人は自分を評価しないし、逆に、自分は、自分の出した結果でしか、人に語ることができない。」ということを話されており、そのようシビアな世界で生きていく「覚悟」を持った人がプロフェッショナルではないか、という意味のことをおっしゃっていました。
三人目の方は、「手間を惜しまないこと。」を挙げられておられました。ほんのわずかな違いを修正したり、ほんのわずかな欠陥を修正して最善の状態に導くために、莫大な手間と時間が必要であるとした場合、大抵の人は、そのわずかばかりの違いを気にすることなく、そこに手間を掛けることをしないのではないでしょうか。しかし、その方法が最善と思うのであれば、惜しみなく時間と手間を注ぎ込むのが「プロフェッショナル」なのだと理解しました。
ということで、この御3方の言葉を私の今年の抱負にしたい思います(安易)。
弁護士という仕事は、人の悩みに接する重い仕事ではありますが、弁護士本人が悩んで落ち込んでも仕方ないし、それでよい方向に物事(事件)が向かうわけもないでしょうから、まずは「自分の仕事を楽しむ」こと。そして、現在の状況に満足せず、常にチャレンジし続けること。今の現状を一歩でも前進させようとチャレンジをし、また、これまでやってなかった新しいことにも挑戦すること。そのことが「仕事を楽しむ」ということにも繋がるのではないかと思いますしね。
あと、やはり、この仕事、言うても結果が全てです。親切、丁寧、早い!安い!などと売り文句を幾ら並び立てても、あるいは、皆さまから幾らお褒めの言葉をいただいても、結果が出せなければ意味がないことは言うまでもありません。ですから、私としても、依頼者にとって最善と思える結果が出せることを一番の獲得目標として仕事をしています(その意味で、最初から、依頼者のご希望に添えそうにないと考える依頼については、その旨をしっかりご説明し、お断りしています。)。そして、本年は、より一層、「結果」にこだわり仕事をしていきたいと思います。ルーティンに陥ることなく、固定観念にとらわれることなく、常に自己の仕事内容を検証しつつ、改善の余地がないか、他に取りうる良い方法がないかを模索しながら仕事に臨む所存です。
そして、そのためには、「手間を惜しまないこと」が一番大切だと感じています。何か気になったり、引っかかることがあったとき、そこを念のために調べてみるとか確認してみるとか、他人が勘違いしそうな表現(部分)や分かり難いかなと思う表現(部分)があった際に、それで良しとせず、改良を行うとか。そういった細部にこだわり、手間を惜しまず仕事をして行きたいと思います。少しニュアンスが外れてしまうかもしれませんが、「神は細部に宿る」という言葉があります。私は、この言葉を、たとえば建築デザインなどで、全体の大まかなデザインの優美さのみを追求するのでなく、骨組みの接合部分とか、そういった細部にもこだわってデザインに配慮した方が、結果、全体的な「美」に資するのであって、細部を考えないデザインは、全体として美しくないという結果に陥ってしまう、というような意味だと理解しています。細部にこだわらないデザインは、たとえ、ぱっと見の全体の「見た目」が良く見えても、結局、建築としては脆弱な、形だけのシロモノになってしまうのではないでしょうか(そして、やはり「美的」にも美しくないはずです。)。私の仕事でも、堅牢な建物を構築するかのような堅実な仕事をしようと思えば、細部にこだわり、「手間を惜しまないこと」が必要だと思いますし、私は、そのような仕事を心がけたいと思います。
以上が、私の今年の抱負のようなものです。
が、最後に一言(といっても、以下も長いですが)。
「いい仕事をしたい」というのは、仕事をする以上、誰でも思う、ある意味当然のことであるかもしれません。ですが、そもそも仕事をするには、そのためのモチベーションが必要なのではないでしょうか。
人はなぜ、仕事をするのか?
それを言いだすと、答えの見つからない泥沼に足を踏み入れそうな気がします。それこそ、人はなぜ生きるのか?とか、人生とは何ぞや?とか・・・。まあ、そんな難解な哲学的な議論をするつもりはないのですが、昨年末、実家で深夜にやっていた映画の再放映を見ていて、そこでの主人公の台詞を聞いて、何となく、私の中で腑に落ちました(論理とか理屈でなく)。年末の深夜に放映されていた何度も再放映されている映画で、名作映画というわけでもなく、「ドクター・ドリトル」という、エディー・マーフィー主演のコメディ映画でした。それなりにヒットして、続編もたくさん作られた映画ではあるものの、こういった大衆娯楽映画はあまり私の趣味でなく、普段なら見ることはないのですが(いわゆる単館系のおされな映画専門です)、深夜、眠くもなく他に見る番組もなかったことから、徒然に見ておりましたところ(いや、これが意外に面白かった)、その中で、動物と話ができるようになってしまったドリトル先生が、脳の病気(腫瘍?)を患っている移動サーカスのトラを何とか助けてあげようと奮闘します。しかし、ドリトル先生は、一時、(動物と話ができると言ったことから)精神病院に入れられ、トラも世をはかなんで(かなり鬱のトラです)、どうせ人間が自分のことを助けてくれるはずがないと諦観し、死を覚悟します。そんな中、何とか精神病院を出てきたドリトル先生は、トラとの約束を守るために、サーカスのトラの檻のもとに駆けつけるのです。トラは、すっかり助かる望みを捨てており、ドリトル先生に、「何しに来たんだ、帰れ」と言います。それに対し、ドリトル先生はこう言います。「全世界では、いまこの瞬間にも、何千というトラが死んでいるかもしれない。そのトラたちの命を救うことは僕にはできない。でも、今、目の前に、君がいて、僕は君を助けることができるんだ。だから、僕は、君を助けに来た。」と。(すみません、正直にいいますが、晦日の深夜、かなりお酒を飲んで酔っ払っていたので、ここのところの台詞が確かか否か、記憶が定かではありません。ただ、お酒のせいだか何だか、この台詞に素直にグッときてしまったのは確かです。)
私は、幸い、弁護士という資格を有して仕事をしており、「法律」を楯と武器にして、資格がなければできない特殊な仕事を請け負うことができます。そこに、困った人が目の前にいて、助けを求めており、私が弁護士という資格をもって、その困った人の助けになることができるというのであれば、私は、何とかその人の力になりたいと思います。全ての困った人の助けとなることはできないでしょうし、その気もないですが、そして、面倒な事件を他の誰かがやってくれるのであれば、できればその他の誰かにやっていただきたいと思うのですが、目の前に困った人がいて、助けを求めており、私にその人を助けることが可能であるのなら、私は、自分のなすべき仕事をしたいと思います。
それが、私の仕事のモチベーションです。
2013年1月23日
祝!1・23
私と社会福祉士さんとが一緒に、平成23年12月13日に設立した「一般社団法人 萩長門成年後見センター」ですが、本日、めでたく山口家庭裁判所から法人後見登録の承認を受けることができました。
「一般社団法人 萩長門成年後見センター」は、弁護士と社会福祉士が力を合せて、協働して成年後見人の任に当たることを目的とした法人で、高齢者や障がい者の方の法人後見を行うために設立されました。法律の専門家である弁護士と福祉の専門家である社会福祉士が手を組んで一緒になって、法人で後見を行う組織というのは、たぶん、山口県では初の組織ではないかと思います。
平成23年12月に設立して以降、「萩長門成年後見センター」を後見人の候補者とする成年後見の申立は行われていたのですが、法人が後見人に選任されるためには山口家庭裁判所の承認と名簿登載が必要であるということで、これまで実際の選任はまだでした。
ですが、この度、山口家庭裁判所から承認を受けることができたとのことです。法人後見は、ずっと実現させたかったことなので、私にとっても、とても嬉しいことですし、今日という日は記念すべき日となりました。1月23日の大安吉日ということで、何となく縁起のいい、喜ばしい日です。
もちろん、承認されただけではダメで、実際に選任されなければ意味がありませんし、選任された後に、法人として(社会福祉士と弁護士が連携して)スムーズに後見業務を遂行していかなければいけません。今日という日は、その始まりの1歩にすぎません。が、とにかく、1歩前に進んだことを、進められたことを、まずは喜びたいと思います。
これから、萩長門成年後見センターを、萩長門圏域の後見を必要とされている方々のために、さらに前進・進化させて行きます。これからです!
「一般社団法人 萩長門成年後見センター」は、弁護士と社会福祉士が力を合せて、協働して成年後見人の任に当たることを目的とした法人で、高齢者や障がい者の方の法人後見を行うために設立されました。法律の専門家である弁護士と福祉の専門家である社会福祉士が手を組んで一緒になって、法人で後見を行う組織というのは、たぶん、山口県では初の組織ではないかと思います。
平成23年12月に設立して以降、「萩長門成年後見センター」を後見人の候補者とする成年後見の申立は行われていたのですが、法人が後見人に選任されるためには山口家庭裁判所の承認と名簿登載が必要であるということで、これまで実際の選任はまだでした。
ですが、この度、山口家庭裁判所から承認を受けることができたとのことです。法人後見は、ずっと実現させたかったことなので、私にとっても、とても嬉しいことですし、今日という日は記念すべき日となりました。1月23日の大安吉日ということで、何となく縁起のいい、喜ばしい日です。
もちろん、承認されただけではダメで、実際に選任されなければ意味がありませんし、選任された後に、法人として(社会福祉士と弁護士が連携して)スムーズに後見業務を遂行していかなければいけません。今日という日は、その始まりの1歩にすぎません。が、とにかく、1歩前に進んだことを、進められたことを、まずは喜びたいと思います。
これから、萩長門成年後見センターを、萩長門圏域の後見を必要とされている方々のために、さらに前進・進化させて行きます。これからです!
2012年11月25日
ブック・カフェ
これまでの書き込みで、音楽ネタが多かったように思われるこのブログですが、実は、あまり音楽に詳しいわけではなく、前回書いたように映画も好きなのは好きなんですが、最近あまり観ていないので、映画や音楽を「好き」と公言することは少々憚られます。
が、本は好きで、仕事が忙しい中でも、常に読みかけの本はあって、時間があれば何かを読んでいますので(忙しいときは寝る前に少しだけとかになってしまいますが)、「本好き」は自信を持って公言できるのではないかと思います。ちなみに、映画と音楽と本に対して好きな順で順位を付けるとすれば、「1に文学、2に映画、3、4がなくて5に音楽」となります。ところで、1位が「本」でなく、「文学」という表記にしたのは、これは、語呂がよかったという理由と、「本」そのものでなく、「本を読むこと」が好きであるということを明確にする意味とがあるのですが、「本を読むこと」とは別に、「本屋巡り」も好きですし、「本を集めること」も好きではあります。
「本屋巡り」ということで言えば、都市型の大型本屋さんも好きですし、小さな古本屋さんも好きで(商店街などにある町の小さな本屋さんはあまり好みではないです。商店街の本屋さん、がんばってるのにすみません。応援してます!)、出張や旅行の際には必ずといっていいほど本屋には足を運ぶのですが、萩で(数少ない)私が不満に思う点が、「本屋が少ない」ということです。図書館は、最近、とてもきれいで大きな図書館が新しく出来たので、この点はすごく良いことで、萩の自慢できることの一つだと思うものの、何でも揃うような大型の本屋さんと店主の趣味を前面に押し出したような個性的な古本屋さんがないのが残念です。「街の文化度はその街の本屋で決まる」というのは、私が勝手に作った言葉なのですが、萩で個性的な本屋さんか古本屋さんをする人が出てきたらいいなと常々思っています。願わくば、おしゃれなブック・カフェなぞできたら・・・。
と、いうような思いが嵩じて、先日、ラ・セイバのマスターが出す野外カフェに私が選んだ本を勝手に置かせてもらいました!1日限りの企画(『アルテコ』というアートとエコの祭典でした。もっとも、『アルテコ』自体は、今後も2回、3回と続けていくそうです。)のなんちゃってブック・カフェでしたが、古本屋さんの店長になったような、とても楽しい気分を味あわせていただきました。ラ・セイバのマスター、ありがとうございます。
私の場合、本はほとんど文庫版で読んでいて、蔵書のほとんどが文庫本なので、私が持っている本を並べて置くだけではあまりぱっとしないだろうと、この企画が行われると聞いた時から私の気になる写真集や絵本などを購入して、この日に臨みました。急あつらえだった割には、何となく、イメージするおしゃれブック・カフェになったのではないかと思います。
その時の様子を。
楽しみの読書もままならない最近の忙しさでしたが、秋空の中、好きな本に囲まれて美味しいコーヒーをいただき、気分も一新、また、仕事にがんばれそうです。
が、本は好きで、仕事が忙しい中でも、常に読みかけの本はあって、時間があれば何かを読んでいますので(忙しいときは寝る前に少しだけとかになってしまいますが)、「本好き」は自信を持って公言できるのではないかと思います。ちなみに、映画と音楽と本に対して好きな順で順位を付けるとすれば、「1に文学、2に映画、3、4がなくて5に音楽」となります。ところで、1位が「本」でなく、「文学」という表記にしたのは、これは、語呂がよかったという理由と、「本」そのものでなく、「本を読むこと」が好きであるということを明確にする意味とがあるのですが、「本を読むこと」とは別に、「本屋巡り」も好きですし、「本を集めること」も好きではあります。
「本屋巡り」ということで言えば、都市型の大型本屋さんも好きですし、小さな古本屋さんも好きで(商店街などにある町の小さな本屋さんはあまり好みではないです。商店街の本屋さん、がんばってるのにすみません。応援してます!)、出張や旅行の際には必ずといっていいほど本屋には足を運ぶのですが、萩で(数少ない)私が不満に思う点が、「本屋が少ない」ということです。図書館は、最近、とてもきれいで大きな図書館が新しく出来たので、この点はすごく良いことで、萩の自慢できることの一つだと思うものの、何でも揃うような大型の本屋さんと店主の趣味を前面に押し出したような個性的な古本屋さんがないのが残念です。「街の文化度はその街の本屋で決まる」というのは、私が勝手に作った言葉なのですが、萩で個性的な本屋さんか古本屋さんをする人が出てきたらいいなと常々思っています。願わくば、おしゃれなブック・カフェなぞできたら・・・。
と、いうような思いが嵩じて、先日、ラ・セイバのマスターが出す野外カフェに私が選んだ本を勝手に置かせてもらいました!1日限りの企画(『アルテコ』というアートとエコの祭典でした。もっとも、『アルテコ』自体は、今後も2回、3回と続けていくそうです。)のなんちゃってブック・カフェでしたが、古本屋さんの店長になったような、とても楽しい気分を味あわせていただきました。ラ・セイバのマスター、ありがとうございます。
私の場合、本はほとんど文庫版で読んでいて、蔵書のほとんどが文庫本なので、私が持っている本を並べて置くだけではあまりぱっとしないだろうと、この企画が行われると聞いた時から私の気になる写真集や絵本などを購入して、この日に臨みました。急あつらえだった割には、何となく、イメージするおしゃれブック・カフェになったのではないかと思います。
その時の様子を。
楽しみの読書もままならない最近の忙しさでしたが、秋空の中、好きな本に囲まれて美味しいコーヒーをいただき、気分も一新、また、仕事にがんばれそうです。
2012年11月21日
知性を操る
久しぶりの書き込みとなります。
先週17日(土)に、防府市で開かれた「見える事例検討会」に参加してきました。成年後見制度に係る困難事例をマインド・マップを使って検討するという事例検討会なのですが、会の詳しい説明は他のところでも書いているので、ここでは紹介いたしません。興味がおありの方は、
http://suzukitakae.com/mierujirei/
をご参考に。
その会で、講演をされた講師の先生が、最後に、「これからは知識を操る時代ではなく、知性を操る時代だ」というようなことを言われていました。どこかの外国の教授か研究者の言葉だそうですが、その方の名前も聞き漏らしてしまいましたし、引用も正確なものでないかもしれません(すみません・・・)。
ですが、今回はこの言葉について考えてみたいと思います。
「知識を操る」というのは、知識を収集して、それを発表したり、何かに適用したりすることだと思うのですが、「知性を操る」というのは、要するに、自分の頭で考えるということだと思います。この「自分の頭で考える」というのは、受験勉強や経営者向けセミナーやサラリーマン出世術など、いろんなところで割とよく言われることではあるものの、実際のところどういうことか?と問われると、なかなか答えるのが難しいのではないでしょうか。
その昔、私が大学生のころ、映画に嵌まった時期が一時期ありまして、映画評論家の蓮實重彦氏の映画評論を読んでは、そこで紹介されている映画を(DVDでなく)ビデオで借りて観たり、単館上映の映画館に観に行ったりとしていました。もちろん映画も好きだったのですが、蓮實氏の映画評論自体が面白く、映画評論以外の本もちらほらと読んでおりました。そんな中に、「理解するということは、実は、誰にでもできる一番簡単なことだ。」というようなことが書かれてあったのに、いたく感銘を受け、心に残っております。とはいえ、正確にどのような言葉で書かれていたのか、出典が何という本であったのかも覚えていません。実は、これを書く前に、いくつか自分の持っている本をあたってみたのですが、上記のようなことが書かれている本は見つかりませんでした(すみません・・・。なんか、今回は全部あやふやな記憶に基づいて書いて、申し訳ないです。)。
その意が正確かどうかは分かりませんが、たとえば、ある人の思想を理解しようと思ったところ、「こうこうである」という説明がされていれば、その思想が「こうこうである」ということは、それを読めば誰でも「分かる」のであって、そのこと自体は全然難しいことではなく、誰にでもできる簡単なことである、ということなのではないかと思います。このような意味で「理解する」ということは、誰かによって既に一度考えられ、言葉にして説明されたことを、そのまま正確にたどって再現することに過ぎないのであって、決して難しいことではない、本当に難しいのは、「自分の頭で考える」ことだと・・・。
と言っても、やっぱり、「自分の頭で考える」というのがどういうことかは分かりませんね。
そこで、もうちょっと自分の本棚を探してみたところ、蓮實氏の著作で私が見つけた本の中に、「何かを理解することと『何かを理解したかのような気分』になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっている」という記述がありました。上記で私が書いたように、新聞などで「こうこうである」という説明がされていて、それを読んだ人が「こうこうである」と「分かる」というのが、実は、「何かを理解したかのような気分」になることだと思います。世の人は「何かを理解したような気分」をはば広く共有することで安堵感を得るのですが、このように、人は、程よく納得した、何となく理解したような「気分」に安堵して、対象を詳細に分析したり、検証したりという手続を必要としなくなります。これに対し、本当に「理解する」ということは、「知性を駆使した分析と総合」であると蓮實氏は述べます。
はあ、これでもやっぱりよく分かりませんね。
しかし、冒頭の「知性を操る」というのと「知性を駆使する」というところで、何となく共通点が見い出されたように思えます。要するに、「自分の頭で考える」というのは、知性を操ったり、駆使したりすることだと言えるのでしょう(これも、程よい納得、「何かを理解した気分」?)。
さて、それで、今回のブログで何が言いたいのかといいますと、成年後見制度を巡る、高齢者の虐待などの様々な問題が絡んだいわゆる困難事例の相談が私のところにも多く寄せられるのですが、知識や情報を操るだけでは解決できない難しい問題が数多くあって、そのような場合、知性を操り、駆使しなければ、到底、問題解決に導けないのではないか、逆に言えば、知性を操り、駆使することをすれば、そのような困難事例も何とか解決に導くことができるのではないか、そういった意味で、「知性を操る」というのは、困難事例の相談を受ける我々にとって、肝に銘ずべき、実にいいフレーズだなあ、と思う、ということなのです。
あ、なんか、すごい、「気分」で話してますね。「知性を操る」というフレーズを口にすることで安堵してしまって、本当に自分の頭で考えて話してるか疑問ですね。ダメですね。
しかし、まあ、「考え」が言葉で記され、説明された以上、既に「知識」「情報」になってしまっているのですから、もとより、このブログでの駄文が「知性を駆使している」と評価されることはあり得ないのかもしれません。あくまで日々の行動・実践の中でこそ、「知性を操る」ことが可能なのでしょう。
・・・日々の行動と実践。成年後見制度を巡る困難事例ならずとも、依頼者からの相談案件に対してはすべからく、日々全力で、知性を操り、駆使して、問題解決に当たることを肝に銘じます。
先週17日(土)に、防府市で開かれた「見える事例検討会」に参加してきました。成年後見制度に係る困難事例をマインド・マップを使って検討するという事例検討会なのですが、会の詳しい説明は他のところでも書いているので、ここでは紹介いたしません。興味がおありの方は、
http://suzukitakae.com/mierujirei/
をご参考に。
その会で、講演をされた講師の先生が、最後に、「これからは知識を操る時代ではなく、知性を操る時代だ」というようなことを言われていました。どこかの外国の教授か研究者の言葉だそうですが、その方の名前も聞き漏らしてしまいましたし、引用も正確なものでないかもしれません(すみません・・・)。
ですが、今回はこの言葉について考えてみたいと思います。
「知識を操る」というのは、知識を収集して、それを発表したり、何かに適用したりすることだと思うのですが、「知性を操る」というのは、要するに、自分の頭で考えるということだと思います。この「自分の頭で考える」というのは、受験勉強や経営者向けセミナーやサラリーマン出世術など、いろんなところで割とよく言われることではあるものの、実際のところどういうことか?と問われると、なかなか答えるのが難しいのではないでしょうか。
その昔、私が大学生のころ、映画に嵌まった時期が一時期ありまして、映画評論家の蓮實重彦氏の映画評論を読んでは、そこで紹介されている映画を(DVDでなく)ビデオで借りて観たり、単館上映の映画館に観に行ったりとしていました。もちろん映画も好きだったのですが、蓮實氏の映画評論自体が面白く、映画評論以外の本もちらほらと読んでおりました。そんな中に、「理解するということは、実は、誰にでもできる一番簡単なことだ。」というようなことが書かれてあったのに、いたく感銘を受け、心に残っております。とはいえ、正確にどのような言葉で書かれていたのか、出典が何という本であったのかも覚えていません。実は、これを書く前に、いくつか自分の持っている本をあたってみたのですが、上記のようなことが書かれている本は見つかりませんでした(すみません・・・。なんか、今回は全部あやふやな記憶に基づいて書いて、申し訳ないです。)。
その意が正確かどうかは分かりませんが、たとえば、ある人の思想を理解しようと思ったところ、「こうこうである」という説明がされていれば、その思想が「こうこうである」ということは、それを読めば誰でも「分かる」のであって、そのこと自体は全然難しいことではなく、誰にでもできる簡単なことである、ということなのではないかと思います。このような意味で「理解する」ということは、誰かによって既に一度考えられ、言葉にして説明されたことを、そのまま正確にたどって再現することに過ぎないのであって、決して難しいことではない、本当に難しいのは、「自分の頭で考える」ことだと・・・。
と言っても、やっぱり、「自分の頭で考える」というのがどういうことかは分かりませんね。
そこで、もうちょっと自分の本棚を探してみたところ、蓮實氏の著作で私が見つけた本の中に、「何かを理解することと『何かを理解したかのような気分』になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっている」という記述がありました。上記で私が書いたように、新聞などで「こうこうである」という説明がされていて、それを読んだ人が「こうこうである」と「分かる」というのが、実は、「何かを理解したかのような気分」になることだと思います。世の人は「何かを理解したような気分」をはば広く共有することで安堵感を得るのですが、このように、人は、程よく納得した、何となく理解したような「気分」に安堵して、対象を詳細に分析したり、検証したりという手続を必要としなくなります。これに対し、本当に「理解する」ということは、「知性を駆使した分析と総合」であると蓮實氏は述べます。
はあ、これでもやっぱりよく分かりませんね。
しかし、冒頭の「知性を操る」というのと「知性を駆使する」というところで、何となく共通点が見い出されたように思えます。要するに、「自分の頭で考える」というのは、知性を操ったり、駆使したりすることだと言えるのでしょう(これも、程よい納得、「何かを理解した気分」?)。
さて、それで、今回のブログで何が言いたいのかといいますと、成年後見制度を巡る、高齢者の虐待などの様々な問題が絡んだいわゆる困難事例の相談が私のところにも多く寄せられるのですが、知識や情報を操るだけでは解決できない難しい問題が数多くあって、そのような場合、知性を操り、駆使しなければ、到底、問題解決に導けないのではないか、逆に言えば、知性を操り、駆使することをすれば、そのような困難事例も何とか解決に導くことができるのではないか、そういった意味で、「知性を操る」というのは、困難事例の相談を受ける我々にとって、肝に銘ずべき、実にいいフレーズだなあ、と思う、ということなのです。
あ、なんか、すごい、「気分」で話してますね。「知性を操る」というフレーズを口にすることで安堵してしまって、本当に自分の頭で考えて話してるか疑問ですね。ダメですね。
しかし、まあ、「考え」が言葉で記され、説明された以上、既に「知識」「情報」になってしまっているのですから、もとより、このブログでの駄文が「知性を駆使している」と評価されることはあり得ないのかもしれません。あくまで日々の行動・実践の中でこそ、「知性を操る」ことが可能なのでしょう。
・・・日々の行動と実践。成年後見制度を巡る困難事例ならずとも、依頼者からの相談案件に対してはすべからく、日々全力で、知性を操り、駆使して、問題解決に当たることを肝に銘じます。
2012年8月13日
2012年5月5日
ロックでない奴ぁ
数年前、大阪にお正月休みで帰郷していた際、新年を迎え、2日か3日の昼ごろ、萩に戻るために両親と一緒に実家から新大阪まで車を運転していた時のことです、車のラジオから私が以前によく聞いていた大阪FM802の男性DJの声が流れてきました。懐かしい思いで、耳をそばだてました。新年初の登場らしく、これから番組が始まるようです。男性DJは、新年の挨拶のあとに、「新しい年を迎えて、新成人や、新入社員になる皆さん、あるいはこの番組をお聞きの皆さんの中にも、これから先、色々と人生の岐路に立たされ、迷うことがあるかもしれません。そのように人生の岐路に立たされ、迷った際、僕は、『ロックかロックでないか』を基準に決めたいと思います。ぜひ、皆さんも、ロックかロックでないか、迷われた際の判断のひとつにしてみてはいかがでしょうか。それでは、新年最初の曲はこの曲です。」と言って、それから怒髪天の『ロックでない奴ぁロクデナシ』がかかったのでした。
まあ、なんというか、衝撃でした。
曲が衝撃的だったのもありますが、新年一発目の曲にこの曲を持ってくるDJの心意気というか、その前振りのMCも考えると、「ロックでなくちゃあ・・・」と、これからまた両親と別れ一人萩に向かう新年に、自然と心が奮い立たされる思いだったのかもしれません。ちょうどその頃、以前の事務所を辞めて、一人で萩でこの萩・山口法律事務所を開設したころでした。何の縁故もない萩で独立して仕事をすることにはやはり躊躇も葛藤もありましたし、悩みました。東京の修習先の先生を頼ることや、大阪に戻ること、あるいは山口市内のお世話になった先生の援助を受けること等、色々な選択肢が頭を巡りました。けれど、一番最後に自分で決める際に決め手となったのは、「ロックかロックでないか」ではありませんが、自分に言い訳をすることのない道を選ぼう、ということでした。 そんな思いがまだ焚火の熾きのように私の心の中に残っていたからでしょうか、このDJの方の言葉と怒髪天の曲を聴いて、萩で独立するという自分の選択は決して間違っていなかったと、この日、胸が熱くなり、思いを新たにしたというのが、もうかれこれ3~4年前のことでしょうが、記憶に新しいです。
それから、月日は流れ、先日、社会福祉士さんら数人の方と懇親会をした際のことです。
これまで社会福祉士さんとは勉強会等で意見交換を行い、交流をすることはあったものの、飲み会などでは、あまり深く仕事の話や個人の仕事に対する熱い思いなどを聞く機会が少なかったのですが、この日は懇親会がメインということもあり、仕事を離れ、雑談から日々の仕事の悩みまで幅広く話をすることができました。そんな中で、個々の社会福祉士さんそれぞれの仕事に対する熱い思いや情熱も聞くことができて、とても興味深かったです。
この日の懇親会も二次会に入り、私もかなりお酒がまわり、話題は真面目に後見制度について議論が移った際のこと、中でも一番のベテランの社会福祉士さんに対して、私が、「ある方にどうしても後見人が必要な場合なんだけれど、お金もないし、面倒くさい事案だし、誰も後見人の成り手がいない、というケースで、誰もやりたいって人がいないのだけれども、『私やります』って言ったらかっこよくないですか?」と話題を振ったのです。そうすると、そのベテランの社会福祉士さんは、「そう、かっこいいか、かっこよくないかはすごく大事なんだよ。」と、熱心に私の話に食いついてきてくださいました。この方も、後見制度や後見人の身上監護や財産管理のあり方について、確固たる理念を持って仕事をされている方ですが、基本は、自身が「かっいい」と思えるかどうかという、ぶれない芯を持って仕事されておられるんだなというのを感じました。
この社会福祉士さんが、「かっこいいか、かっこよくないは大事なことだよ」という話をされた時、私は、数年前に聞いたあのラジオの言葉、「ロックかロックでないか」を思い出していました。
実は、わたくし、ロックはあまり聞かず、おこがましくもロケンローラーとは言えませんが、今後も、何か人生の岐路に立たされ、迷った際には、「ロックかロックでないか」を判断基準にしていきたいと思います。そんな気持ちで、先般、成年後見を受任する法人「一般社団法人 萩長門成年後見センター」を立ち上げたのですが、それはまた別の話。
ちなみに、怒髪天の歌詞は、以下のとおりです。
「胸を焦がすような熱い想い 全部捨てて暮らすのが マトモな人生か?
(中略)
手堅く平坦な道も 悪くはねぇんだが
へたれにゃちょいとわからねえ 男のロマンだぜ
ここが土壇場 正念場
人生劇場 主役はおれだ!
どちらにしようか迷ったら どっちがROCKだ? これで決めるぜ!」
2012年4月6日
40
春ですね。
春といえば、先日、あの~、私事ではありますが、めでたくと言いますか、全然めでたくもないのですが、え~、ま、何と言いますか、その~、とうとう40歳になりました!
巷では、「30代でしておかねばならないなんちゃら」とか、「30代にやっておいてよかったなんたら」という本なんかも人気のようで、私も40歳になるにあたって、本屋さんでこのような本を手に取ってみて何かやり残したことがないかを確認してみようかとも思ったのですが、よく考えたら、40歳になってしまったので、30代にしておかなければならないことを確認しても、もはや手遅れなわけで、そうすると、読むとするなら、「40代でしておくべきうんぬんかんぬん」という本を読まなければいけないことになるのですが、まだ、40代になったばかりで、40代とは今後10年もおつき合いしなければならないことを思うと、そんなに急いでやらなければいけないことを確認する必要もないでしょう、ということで、結局、このような本を手に取る機会は、これからもしばらくはないのかもしれません。まあ、そんなこんなで、区切りなどというものにそれほど大した意味などないのではないかと思うのですが、何となく30代の最後、39歳の最後の日に何か?と考えた際に、この歳になるまでの過去を振り返って、これまでお世話になった方々に、言えなかった感謝の気持ちを改めて述べるのはいかがなものかと、39歳の最後の日なだけにサンキューというのは最高にしゃれているのではないかと、一人悦に入って考え、これまでお世話になった方々のことをひとりひとり思い浮かべながら、感謝の気持ちを新たにしつつ、この日(39歳の最後の日)を過ごしました。ま、直接に感謝の気持ちを伝えなければ意味はないのでしょうが。
さて、40歳になったからといって何がどうということもないのですが、40歳になって困ったということを挙げるとすれば、それは、年齢を聞かれた際に「40です。」と言わなければいけないことで、それのどこが困るのかといえば、私の見た目が40歳に見えないのではないかという不安があるからなのです。というと、見た目が老けていて、もっとおっさんに見えるのかというと、そうではなくて、逆に若く見られるのではないかという心配があるのです。確かに、若く見られるのは必ずしも悪いことではないかもしれませんが、この仕事、やはり若いよりもある程度歳がいっている方が安心感があるというか信頼が持てるということがありますので、あまり若く見られると、「大丈夫か?」と心配されるというマイナス面もあろうかと思います。まして、落ち着きがなく、年齢に見合った内容が伴わないから若く見えるのではと思われては、私としても返す言葉がありません。
私も今年で弁護士7年目。弁護士会の中では、もはや新人ではなく中堅といえる立場です。そこで、こうして40歳の報告をして、確かな経験と実績をさもしくもさりげなくアピールしたりするのですが、ここでこうして宣言することで、この一年で年齢に見合った落ち着きを身につけられたらという有言実行の思いもあります。
ところで、私が昔読んだ本の中で、主人公が、年齢よりも見た目が若いことを指摘され(指摘した人は褒めるつもりでなく、少し揶揄するニュアンスで言ったのでしょう)、これに対して、その主人公が「人は、威張らなければ歳を取らないものです。」という意味のことを答える場面がありました。何の本で、どのような話であったのか、記憶が曖昧なのですが、このセリフだけが、妙に記憶に残っています。高校生ぐらいに読んだ本のはずですが、私は、その後ずっと忘れずに、この言葉を常に頭の片隅に置いていたように思います。今では、「先生」と呼ばれる立場になりましたが、だからといって、決して偉ぶったり、威張る必要はないと考えていますし、威張らなければ尊敬されたり、信頼されないのであれば、尊敬されたり、信頼されなくても結構とも考えています。ただ、そうは言っても、もう少し見た目が落ち着いて見えたらいいなあとも思いますので、偉ぶったり威張ったりしないで、年相応に見えるようにするにはどうしたらいいのでしょうかね?やはり、人間的な中身の充実でしょうか・・・?
と、不惑にして惑うばかり。
春といえば、先日、あの~、私事ではありますが、めでたくと言いますか、全然めでたくもないのですが、え~、ま、何と言いますか、その~、とうとう40歳になりました!
巷では、「30代でしておかねばならないなんちゃら」とか、「30代にやっておいてよかったなんたら」という本なんかも人気のようで、私も40歳になるにあたって、本屋さんでこのような本を手に取ってみて何かやり残したことがないかを確認してみようかとも思ったのですが、よく考えたら、40歳になってしまったので、30代にしておかなければならないことを確認しても、もはや手遅れなわけで、そうすると、読むとするなら、「40代でしておくべきうんぬんかんぬん」という本を読まなければいけないことになるのですが、まだ、40代になったばかりで、40代とは今後10年もおつき合いしなければならないことを思うと、そんなに急いでやらなければいけないことを確認する必要もないでしょう、ということで、結局、このような本を手に取る機会は、これからもしばらくはないのかもしれません。まあ、そんなこんなで、区切りなどというものにそれほど大した意味などないのではないかと思うのですが、何となく30代の最後、39歳の最後の日に何か?と考えた際に、この歳になるまでの過去を振り返って、これまでお世話になった方々に、言えなかった感謝の気持ちを改めて述べるのはいかがなものかと、39歳の最後の日なだけにサンキューというのは最高にしゃれているのではないかと、一人悦に入って考え、これまでお世話になった方々のことをひとりひとり思い浮かべながら、感謝の気持ちを新たにしつつ、この日(39歳の最後の日)を過ごしました。ま、直接に感謝の気持ちを伝えなければ意味はないのでしょうが。
さて、40歳になったからといって何がどうということもないのですが、40歳になって困ったということを挙げるとすれば、それは、年齢を聞かれた際に「40です。」と言わなければいけないことで、それのどこが困るのかといえば、私の見た目が40歳に見えないのではないかという不安があるからなのです。というと、見た目が老けていて、もっとおっさんに見えるのかというと、そうではなくて、逆に若く見られるのではないかという心配があるのです。確かに、若く見られるのは必ずしも悪いことではないかもしれませんが、この仕事、やはり若いよりもある程度歳がいっている方が安心感があるというか信頼が持てるということがありますので、あまり若く見られると、「大丈夫か?」と心配されるというマイナス面もあろうかと思います。まして、落ち着きがなく、年齢に見合った内容が伴わないから若く見えるのではと思われては、私としても返す言葉がありません。
私も今年で弁護士7年目。弁護士会の中では、もはや新人ではなく中堅といえる立場です。そこで、こうして40歳の報告をして、確かな経験と実績をさもしくもさりげなくアピールしたりするのですが、ここでこうして宣言することで、この一年で年齢に見合った落ち着きを身につけられたらという有言実行の思いもあります。
ところで、私が昔読んだ本の中で、主人公が、年齢よりも見た目が若いことを指摘され(指摘した人は褒めるつもりでなく、少し揶揄するニュアンスで言ったのでしょう)、これに対して、その主人公が「人は、威張らなければ歳を取らないものです。」という意味のことを答える場面がありました。何の本で、どのような話であったのか、記憶が曖昧なのですが、このセリフだけが、妙に記憶に残っています。高校生ぐらいに読んだ本のはずですが、私は、その後ずっと忘れずに、この言葉を常に頭の片隅に置いていたように思います。今では、「先生」と呼ばれる立場になりましたが、だからといって、決して偉ぶったり、威張る必要はないと考えていますし、威張らなければ尊敬されたり、信頼されないのであれば、尊敬されたり、信頼されなくても結構とも考えています。ただ、そうは言っても、もう少し見た目が落ち着いて見えたらいいなあとも思いますので、偉ぶったり威張ったりしないで、年相応に見えるようにするにはどうしたらいいのでしょうかね?やはり、人間的な中身の充実でしょうか・・・?
と、不惑にして惑うばかり。
2012年2月1日
No Problem
ご挨拶が遅くなりましたが、新年もよろしくお願いします。
さて、そろそろ映画や音楽などの趣味の話でも書こうかと思っていたのですが、せっかくの新年最初の書き込みなので、今年の「意気込み」みたいなものも書かなければとも思いますので、両方をミックスした趣味と意気込みの話でもひとつ。
私がプロフィールでお気に入りの音楽として挙げている「Flight to Denmark」ですが、デューク・ジョーダンのこのジャズ・アルバムは、他に挙げている「ワルツ・フォー・デビー」や「サムシング・エルス」といった超メジャーなアルバムと比べると、ややマイナー感があるかと思われます。ですが、私は、このアルバムが大好きで、家で毎日かけていても全然飽きないほどなのです。「ワルツ・フォー・デビー」や「サムシング・エルス」も、何度聴いても「いいな~」と感じられる名作ですが、やはり時と場合を選んで掛けたくなる音楽で、家でご飯を食べながら毎日聴くというアルバムではないように感じるのものの、この「Flight to Denmark」は、不思議と飽きません。まあ、悪く言ってしまえば、カフェ・ミュージックのように聴きやすい、部屋で何かしながら聞くようなBGM的な音楽ということになるのかもしれませんが。
私がこのデューク・ジョーダンのアルバムを知ったのは、萩の私のお気に入りのカフェレストラン「ラ・セイバ」に置いてあったのを見つけたのがきっかけでした。ここのマスターは音楽好きで、私はよくお店に置いてあるCDを借りて帰るのですが、借りるCDは毎回はずれなく良いアルバムなのです。「Flight to Denmark」は、ジャケットが気に入って、直ぐに借りて帰ろうと決めました。ジャケットは、雪原で一人コートを着て佇むデューク・ジョーダン(だと思う男性)の写真で、凛とした中にどこか哀愁がただよう様子に心惹かれました。家に持ち帰って聞いたところ、やはり音楽も、哀愁漂うメロディーの中にピンと張りつめたものがあって、胸に響きました。アルバムの1曲目。最初に、ジャ~んとシンバルが鳴り響き、独特のイントロが。その後、チャンッ!と高音のピアノが叩かれ、もう一度、チャンッ!そして、印象的なピアノリズムが奏でられ曲が始まります。このメロディーが胸がぞわぞわするほど哀愁漂う感じでとてもいいです。その後の曲も、明るいアップテンポな曲で楽しくなるメロディーも多いのですが、どこか雪原で佇む一人の男性を思わせる美しくも哀しい感じを醸し出しています。
さて、趣味の話ばかりで全く「意気込み」の話が出てきませんが、これからです。
このアルバムを借りてから後に初めてラ・セイバに行った際のことです。私は、ラ・セイバのマスターの朗太さんに、このアルバムがとても良かったという話をしました。すると、朗太さんは、「僕がこのお店を作る前、このアルバムみたいなお店を作りたいなと考えながらよくこのCDを聞いていました。」という話をされ、私は、はっとしました。朗太さんの言葉の意味がすごく良く分かるような気がしたのです。
私は、この「Flight to Denmark」のCDを借りてから、何度も繰り返し聴き、何故、こんなに心惹かれ琴線に触れるメロディーなんだろうかと考えたのですが、それは、適度にキャッチーな、ある意味通俗的なメロディーなんだけれど、それを通俗に堕さない「何か」があるからじゃないだろうかとそんなことを漠然と考えていたのでした。その「何か」というのは、はっきりと言葉で表すことはできないのですが、この「Flight to Denmark」のデューク・ジョーダンにはそれがあるような気がしたのです。CDレヴューを読むと、「チャーリー・パーカーのもとで活躍したデュークも、1962年以降主だった活動もなく、タクシーの運転手をしたりしていた」ところ、「一定のジャズファンが存在し、人種差別も比較的少ないデンマーク」に渡り、1973年にアルバムを録音した。それが「Flight to Denmark」でした。音楽の世界を離れタクシードライバーをしていたデューク・ジョーダンに一体何があったのかは知らないけれど、デューク・ジョーダンはデンマークに飛び、そしてこの美しい(と言ってしまっていいでしょう)アルバムを作った。人生分からないものです。
ラ・セイバのマスターである朗太さんも、数年前に関東の方から萩に来られ、ラ・セイバを作られました。萩の地元の人々だけでなく遠くから来られる観光客にも愛される素敵なお店です。皆に愛される、気取らない、親しみやすい、「通俗的な」、「キャッチ―な」お店ですが、凛とした「何か」がラ・セイバにも(そして、朗太さんにも)あります。そんなところが、私がラ・セイバに惹かれる理由だと思います(言い忘れましたが、朗太さんの作る料理は掛け値なしに美味しいです!)。
さて、ここまで来れば、もうお分かりかと思いますが、私の「意気込み」です。
私も、朗太さんの言葉を聞いて思ったのです。「Flight to Denmark」のような事務所を作れたらいいなと。気取らない、親しみ深い、明るく暖かい雰囲気の中にあって、それと矛盾することなく、雪原に凛とたたずむ一人の男性のイメージ・・・。
と、言われても、全くイメージが沸かないと思いますので、百聞は一見(聴)に如かず。
お待たせしました、アルバム「Flight to Denmark」から No Problem です。
http://www.youtube.com/watch?v=HDzaINwBpA0&feature=related
さて、そろそろ映画や音楽などの趣味の話でも書こうかと思っていたのですが、せっかくの新年最初の書き込みなので、今年の「意気込み」みたいなものも書かなければとも思いますので、両方をミックスした趣味と意気込みの話でもひとつ。
私がプロフィールでお気に入りの音楽として挙げている「Flight to Denmark」ですが、デューク・ジョーダンのこのジャズ・アルバムは、他に挙げている「ワルツ・フォー・デビー」や「サムシング・エルス」といった超メジャーなアルバムと比べると、ややマイナー感があるかと思われます。ですが、私は、このアルバムが大好きで、家で毎日かけていても全然飽きないほどなのです。「ワルツ・フォー・デビー」や「サムシング・エルス」も、何度聴いても「いいな~」と感じられる名作ですが、やはり時と場合を選んで掛けたくなる音楽で、家でご飯を食べながら毎日聴くというアルバムではないように感じるのものの、この「Flight to Denmark」は、不思議と飽きません。まあ、悪く言ってしまえば、カフェ・ミュージックのように聴きやすい、部屋で何かしながら聞くようなBGM的な音楽ということになるのかもしれませんが。
私がこのデューク・ジョーダンのアルバムを知ったのは、萩の私のお気に入りのカフェレストラン「ラ・セイバ」に置いてあったのを見つけたのがきっかけでした。ここのマスターは音楽好きで、私はよくお店に置いてあるCDを借りて帰るのですが、借りるCDは毎回はずれなく良いアルバムなのです。「Flight to Denmark」は、ジャケットが気に入って、直ぐに借りて帰ろうと決めました。ジャケットは、雪原で一人コートを着て佇むデューク・ジョーダン(だと思う男性)の写真で、凛とした中にどこか哀愁がただよう様子に心惹かれました。家に持ち帰って聞いたところ、やはり音楽も、哀愁漂うメロディーの中にピンと張りつめたものがあって、胸に響きました。アルバムの1曲目。最初に、ジャ~んとシンバルが鳴り響き、独特のイントロが。その後、チャンッ!と高音のピアノが叩かれ、もう一度、チャンッ!そして、印象的なピアノリズムが奏でられ曲が始まります。このメロディーが胸がぞわぞわするほど哀愁漂う感じでとてもいいです。その後の曲も、明るいアップテンポな曲で楽しくなるメロディーも多いのですが、どこか雪原で佇む一人の男性を思わせる美しくも哀しい感じを醸し出しています。
さて、趣味の話ばかりで全く「意気込み」の話が出てきませんが、これからです。
このアルバムを借りてから後に初めてラ・セイバに行った際のことです。私は、ラ・セイバのマスターの朗太さんに、このアルバムがとても良かったという話をしました。すると、朗太さんは、「僕がこのお店を作る前、このアルバムみたいなお店を作りたいなと考えながらよくこのCDを聞いていました。」という話をされ、私は、はっとしました。朗太さんの言葉の意味がすごく良く分かるような気がしたのです。
私は、この「Flight to Denmark」のCDを借りてから、何度も繰り返し聴き、何故、こんなに心惹かれ琴線に触れるメロディーなんだろうかと考えたのですが、それは、適度にキャッチーな、ある意味通俗的なメロディーなんだけれど、それを通俗に堕さない「何か」があるからじゃないだろうかとそんなことを漠然と考えていたのでした。その「何か」というのは、はっきりと言葉で表すことはできないのですが、この「Flight to Denmark」のデューク・ジョーダンにはそれがあるような気がしたのです。CDレヴューを読むと、「チャーリー・パーカーのもとで活躍したデュークも、1962年以降主だった活動もなく、タクシーの運転手をしたりしていた」ところ、「一定のジャズファンが存在し、人種差別も比較的少ないデンマーク」に渡り、1973年にアルバムを録音した。それが「Flight to Denmark」でした。音楽の世界を離れタクシードライバーをしていたデューク・ジョーダンに一体何があったのかは知らないけれど、デューク・ジョーダンはデンマークに飛び、そしてこの美しい(と言ってしまっていいでしょう)アルバムを作った。人生分からないものです。
ラ・セイバのマスターである朗太さんも、数年前に関東の方から萩に来られ、ラ・セイバを作られました。萩の地元の人々だけでなく遠くから来られる観光客にも愛される素敵なお店です。皆に愛される、気取らない、親しみやすい、「通俗的な」、「キャッチ―な」お店ですが、凛とした「何か」がラ・セイバにも(そして、朗太さんにも)あります。そんなところが、私がラ・セイバに惹かれる理由だと思います(言い忘れましたが、朗太さんの作る料理は掛け値なしに美味しいです!)。
さて、ここまで来れば、もうお分かりかと思いますが、私の「意気込み」です。
私も、朗太さんの言葉を聞いて思ったのです。「Flight to Denmark」のような事務所を作れたらいいなと。気取らない、親しみ深い、明るく暖かい雰囲気の中にあって、それと矛盾することなく、雪原に凛とたたずむ一人の男性のイメージ・・・。
と、言われても、全くイメージが沸かないと思いますので、百聞は一見(聴)に如かず。
お待たせしました、アルバム「Flight to Denmark」から No Problem です。
http://www.youtube.com/watch?v=HDzaINwBpA0&feature=related
2011年10月4日
ご専門は?
この仕事をしていて、よく聞かれるのが、「先生のご専門は何ですか?」という質問です。
先月から、iタウンページに萩・山口法律事務所の情報が載るようになったのですが、ここでも「主な取扱い業務」のようなものを書かなくてはいけませんでした。業務内容に何を入れて何を入れないかは迷う所ですが、iタウンページに載せる情報の内容はどうしても定型的なものにならざるを得ず、とりあえず扱う分野のお仕事を網羅的に全て載せておくという感じになっています。
で、実際のところ、何が専門とか得意分野ですかと聞かれると・・・、何とお答えすべきか迷った末にですが、「何でもやります。」とお答えすることにしています。というのも、私が萩に来て弁護士を始めてこの9月でちょうど丸6年になりましたが、6年前には、萩に弁護士事務所が一つしかなく、相談に来られた方の相談はどのような内容でもそれなりに回答できなければなりませんでしたし、実際に依頼を受ける段になった場合は、どのような事件でもその方が法的な問題で困って弁護士を必要とされている以上、ご依頼を断るということは考えられず、事件を受けて対処してきたつもりです。離婚はやりません、労働事件は扱っていません、医療訴訟はできません等と言っている場合ではなく、「何でもやります。」と何でもやれなければいけないという状況だったのです(もちろん、自分一人では困難だと判断した事件の場合は、他の先生のご協力を仰ぐこともありました。)。
このような状況は、弁護士の数が少ない地域で仕事をされている弁護士さんはどこも同じような事情のはずで、特に「専門」を標榜される弁護士さんは、東京・大阪等の大都市で働く弁護士さんだけではないでしょうか。
このように何でもやらなければいけないし、何でもできなければいけない、というのが実情なのですが、それでも、特に相談の多い分野の事件とほとんど相談のない分野の事件というのも確かにあるわけで、そうすると自ずと得意・不得意のようなものが出来てくるということもあります。私の例で言いますと、借金の問題や遺産相続の問題、離婚、土地の境界問題等の相談が多かったように感じます。反対に少ない相談としては、企業絡みの相談、未払い賃金の請求等の労働問題等の相談が少なかったように思います。そうはいっても、このように単純にある「分野」に簡単に分類できないような相談がたくさんあるわけで、それこそ一つ一つの相談は全く同じものがなく、それぞれが個性的な唯一無二な相談なわけですから、相談される方も一生に一度の大問題を私の法律事務所に相談に来られ、相談を受ける私の方もこの唯一無二の問題を、これまでの過去の例に照らしながら、過去の例とどこが同じでどこが違うのか等と考えながら自分の経験と知識を総動員して相談に乗るということになります。過去の経験が活かされるのは、何も似たような種類の事件ばかりとは限りません。以前に私が依頼を受けた債務整理の事件での経験が、新しく相談を受けている相続関係の問題で役に立つこともあります。「人」と「人」との仕事ですから、弁護士の仕事に「定型」というものはなく、全ての事件が私にとっても初めて経験する新しい事件なのです。
そう考えてみると、得意分野も不得意分野もないのではないかと思われて、「先生のご専門は何ですか?」という質問に対しては、これからも変わらず、「何でもやります。」とお答えすることになるのでしょう・・・。
先月から、iタウンページに萩・山口法律事務所の情報が載るようになったのですが、ここでも「主な取扱い業務」のようなものを書かなくてはいけませんでした。業務内容に何を入れて何を入れないかは迷う所ですが、iタウンページに載せる情報の内容はどうしても定型的なものにならざるを得ず、とりあえず扱う分野のお仕事を網羅的に全て載せておくという感じになっています。
で、実際のところ、何が専門とか得意分野ですかと聞かれると・・・、何とお答えすべきか迷った末にですが、「何でもやります。」とお答えすることにしています。というのも、私が萩に来て弁護士を始めてこの9月でちょうど丸6年になりましたが、6年前には、萩に弁護士事務所が一つしかなく、相談に来られた方の相談はどのような内容でもそれなりに回答できなければなりませんでしたし、実際に依頼を受ける段になった場合は、どのような事件でもその方が法的な問題で困って弁護士を必要とされている以上、ご依頼を断るということは考えられず、事件を受けて対処してきたつもりです。離婚はやりません、労働事件は扱っていません、医療訴訟はできません等と言っている場合ではなく、「何でもやります。」と何でもやれなければいけないという状況だったのです(もちろん、自分一人では困難だと判断した事件の場合は、他の先生のご協力を仰ぐこともありました。)。
このような状況は、弁護士の数が少ない地域で仕事をされている弁護士さんはどこも同じような事情のはずで、特に「専門」を標榜される弁護士さんは、東京・大阪等の大都市で働く弁護士さんだけではないでしょうか。
このように何でもやらなければいけないし、何でもできなければいけない、というのが実情なのですが、それでも、特に相談の多い分野の事件とほとんど相談のない分野の事件というのも確かにあるわけで、そうすると自ずと得意・不得意のようなものが出来てくるということもあります。私の例で言いますと、借金の問題や遺産相続の問題、離婚、土地の境界問題等の相談が多かったように感じます。反対に少ない相談としては、企業絡みの相談、未払い賃金の請求等の労働問題等の相談が少なかったように思います。そうはいっても、このように単純にある「分野」に簡単に分類できないような相談がたくさんあるわけで、それこそ一つ一つの相談は全く同じものがなく、それぞれが個性的な唯一無二な相談なわけですから、相談される方も一生に一度の大問題を私の法律事務所に相談に来られ、相談を受ける私の方もこの唯一無二の問題を、これまでの過去の例に照らしながら、過去の例とどこが同じでどこが違うのか等と考えながら自分の経験と知識を総動員して相談に乗るということになります。過去の経験が活かされるのは、何も似たような種類の事件ばかりとは限りません。以前に私が依頼を受けた債務整理の事件での経験が、新しく相談を受けている相続関係の問題で役に立つこともあります。「人」と「人」との仕事ですから、弁護士の仕事に「定型」というものはなく、全ての事件が私にとっても初めて経験する新しい事件なのです。
そう考えてみると、得意分野も不得意分野もないのではないかと思われて、「先生のご専門は何ですか?」という質問に対しては、これからも変わらず、「何でもやります。」とお答えすることになるのでしょう・・・。
2011年7月10日
猫となんとかと法律事務所
さて、このブログですが、2009年5月にとりあえず形式だけでも作っておこうかと思い立って作成したものの、その後、ずっと更新することなく放置していました。多分、誰も見ていないだろうし、存在すら知られることなく、電子の網のどこか奥深くにひっそりと捨て置かれているのであろうと、今の今までそう思っていました。
ところが。
先日、NTT関連の会社の方からお電話があり、「インターネットの電話帳に電話番号と簡単なホームページのようなものを載せませんか。」という勧誘を受けました。「うちはホームページも作ってませんし、電話番号だけであれば既にお願いしているところがあるので・・・。」とお断りしようと思いましたが、「東大阪ご出身だそうですね。萩でも長く弁護士をされて、今では地域でのご信頼もあろうかと思いますが。」と妙に私のことを知っている様子。おかしいなと思いながら、いろいろとお話を聞いていると、どうも、このブログを見て電話を掛けてきたということのようでした。それで、さすが勧誘のためにいろんなところをチェックされているのだなあ・・・と感心はしたものの、とは言え、この時点では、それほどこのブログの存在のことは気にしていませんでした。探そうと思わなければ見つからないような存在であろうと。(ちなみに、後日、このNTT関連の会社から送られてきたご案内には、ご丁寧に東大阪の弁護士事務所さんの掲載例がご紹介されていました。)
そして、本日、以前の事務所のボスから電話が掛かって来ました。電話の内容は、ごくごくプライベートな用事だったのですが、その電話の最後に、「ところで山口君、君のインターネットのページを見たんだが、猫となんとかと法律事務所というの、あれは何だね?」と、突然、尋ねられました。私は、「あれは私の知り合いの弁護士のブログでして。」とお答えすると、「ああ、そうか。」と安心した様子で電話を切られました。
その後、何となく気になって、遠い昔に作った自分のブログ(このブログ)を見直し、リンクに貼っている友人の弁護士のブログをクリックして改めてその内容を読んでみたのですが・・・。こ、これでは、誰がこのブログを書いているか分からないではないですか!もちろん、注意して読めば、札幌在住の弁護士の猫ブログだということは分かるようにはなっているものの、あまりネットに詳しくない人がさらっと読むと、私の個人的なブログと勘違いする人もいそうですし、実際、元ボスはどうやらそのように勘違いしたのでは?!ちょうど最後のページも内容が内容であっただけに、そりやぁ、一体、何があったのかと心配することでしょう・・・。
というわけで、私は、ようやく次の2つの事実に気付きました。①意外とこの事務所のブログを見ている人がいること(というか、「萩・山口法律事務所」ないし「弁護士 山口正之」で検索すると、この事務所ブログにヒットする確率が高いこと)、②リンク先の某ブログを私の個人的なブログと勘違いされている方が一定の割合でおられるであろう、ということです。
そこで、このように慌てて、2年ぶりのブログへの書き込みを行っております。
前置きが長くなりましたが、これからが本題です。
このような更新のないブログをご覧いただいた皆さま、本当にありがとうございます。これまで何も更新をしておらず、申し訳ありませんでした。今後は、少しずつでも有益な情報と必ずしも有益でないかもしれませんが私の日々の雑感などを書き込んで行けたらと思いますので、今後とも、萩・山口法律事務所をよろしくお願いします。(これを機会にレイアウトも一新しました。)なお、リンク先のブログは私のブログではありませんので、くれぐれもお間違いのないようお願いいたします。
以上、おわびと(誤解の)訂正?でした。
追伸:「猫となんとか」のブログは「青山さん」に引き継がれましたので、リンクも変更しました。
ところが。
先日、NTT関連の会社の方からお電話があり、「インターネットの電話帳に電話番号と簡単なホームページのようなものを載せませんか。」という勧誘を受けました。「うちはホームページも作ってませんし、電話番号だけであれば既にお願いしているところがあるので・・・。」とお断りしようと思いましたが、「東大阪ご出身だそうですね。萩でも長く弁護士をされて、今では地域でのご信頼もあろうかと思いますが。」と妙に私のことを知っている様子。おかしいなと思いながら、いろいろとお話を聞いていると、どうも、このブログを見て電話を掛けてきたということのようでした。それで、さすが勧誘のためにいろんなところをチェックされているのだなあ・・・と感心はしたものの、とは言え、この時点では、それほどこのブログの存在のことは気にしていませんでした。探そうと思わなければ見つからないような存在であろうと。(ちなみに、後日、このNTT関連の会社から送られてきたご案内には、ご丁寧に東大阪の弁護士事務所さんの掲載例がご紹介されていました。)
そして、本日、以前の事務所のボスから電話が掛かって来ました。電話の内容は、ごくごくプライベートな用事だったのですが、その電話の最後に、「ところで山口君、君のインターネットのページを見たんだが、猫となんとかと法律事務所というの、あれは何だね?」と、突然、尋ねられました。私は、「あれは私の知り合いの弁護士のブログでして。」とお答えすると、「ああ、そうか。」と安心した様子で電話を切られました。
その後、何となく気になって、遠い昔に作った自分のブログ(このブログ)を見直し、リンクに貼っている友人の弁護士のブログをクリックして改めてその内容を読んでみたのですが・・・。こ、これでは、誰がこのブログを書いているか分からないではないですか!もちろん、注意して読めば、札幌在住の弁護士の猫ブログだということは分かるようにはなっているものの、あまりネットに詳しくない人がさらっと読むと、私の個人的なブログと勘違いする人もいそうですし、実際、元ボスはどうやらそのように勘違いしたのでは?!ちょうど最後のページも内容が内容であっただけに、そりやぁ、一体、何があったのかと心配することでしょう・・・。
というわけで、私は、ようやく次の2つの事実に気付きました。①意外とこの事務所のブログを見ている人がいること(というか、「萩・山口法律事務所」ないし「弁護士 山口正之」で検索すると、この事務所ブログにヒットする確率が高いこと)、②リンク先の某ブログを私の個人的なブログと勘違いされている方が一定の割合でおられるであろう、ということです。
そこで、このように慌てて、2年ぶりのブログへの書き込みを行っております。
前置きが長くなりましたが、これからが本題です。
このような更新のないブログをご覧いただいた皆さま、本当にありがとうございます。これまで何も更新をしておらず、申し訳ありませんでした。今後は、少しずつでも有益な情報と必ずしも有益でないかもしれませんが私の日々の雑感などを書き込んで行けたらと思いますので、今後とも、萩・山口法律事務所をよろしくお願いします。(これを機会にレイアウトも一新しました。)なお、リンク先のブログは私のブログではありませんので、くれぐれもお間違いのないようお願いいたします。
以上、おわびと(誤解の)訂正?でした。
追伸:「猫となんとか」のブログは「青山さん」に引き継がれましたので、リンクも変更しました。
登録:
投稿 (Atom)