2013年6月18日

ぽつねん


最近、本業の方は新規の相談と受任を控えさせていただき、手持ち事件の処理に勤しんでいるのですが、それとは別に、弁護士会の委員会活動や法人後見事業の方も忙しく、今月の各週末にはほぼ仕事が入っており、週末もゆっくりできていないのが現状です。

そんな6月の土曜日、久しぶりに北九州にお出かけしました。小林賢太郎さんのソロコント「POTSUNEN」を観に行ってきましたよ。

しかし、今回は、これを観に行ったことの感想ではありません。

 

「ポツネン」を観に行く前日の金曜日の夜は、山口市湯田で弁護士会の会合があり、会合の後は懇親会で、この日は湯田のビジネスホテルにお泊り。翌日の土曜日の朝には少しお酒が残っている感じがしたので、昼食は身体にやさしく、出来るだけ野菜たっぷりの食事をと、北九州に向かう前に、山口市内にある‘ベジタブル喫茶’「Toy Toy」でお昼ご飯をいただきました。

この「Toy Toy」さん、自然派の食材を活かした自然派の料理が‘売り’のようですが、その辺の情報にはあんまり私は詳しくなく、正確でないかもしれないので、料理の内容には踏み込みません(この日いただいたランチはもっちりとした玄米ご飯を始め、おかずもどれも美味しかったです。)。お店の雰囲気とか、置いてある本などがどれも私の好みにぴったりで、とても居心地のよいお店なのです。ちなみに、店主が猫がお好きなのか、猫関係の書籍がたくさん置いてありました。

そんな数ある書籍の中、太宰治の『人間失格』にも並ぶ文学青年たちのバイブル(あくまで私見)ともいえる梶井基次郎の『檸檬』が置いてあるではないですか。この短編小説、かなり以前に読んだことはあるものの、「八百屋でふと買ってしまった檸檬を本屋に積み重ねられた本たちの上にそっと置いて帰る」というあらすじだけしか覚えていなかったことから、ランチが届くまでの間、パラパラと読み返してみることにしました。

 

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧(おさ)えつけていた。」との一文から始まるこの掌編は、以降で、「以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。」と、その鬱々とした主人公の独白が綴られます。そして、物語が肝心の‘檸檬’へと向かう話の転換点の、この小説が始まって3ページ目のところで(ちょうど、ランチのスープが私のテーブルに置かれた時に)、「ぽつねん」という一語が私の目に飛び込んで来たのでした。

正確にその部分を引用すると、こうです。

「ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へという風に友達の下宿を転々として暮らしていたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取残された。」

そして、主人公は、「私はまた其処から彷徨い出なければならなかった。」と追い立てられるように街から街を歩いて、以前からの一等お気に入りのお店で‘檸檬’を手に入れることになるのですが、この主人公が、空虚な空気の中に一人取残された「ぽつねん」という心情と、小林賢太郎の「ポツネン」公演にただよう詩情とがぴったり重なり合い、小林賢太郎は、「ポツネン」というお題目を梶井基次郎の「檸檬」から取ったに違いない!と、確信めいた直観(ひらめき?思いつき?)を感じたのでした。

 

さて、この事の真偽はさておき(今のところ、小林賢太郎が梶井基次郎の『檸檬』を愛読していたとの事実は掴んでいません。CMで『人間失格』を読んでいたシーンがあったそうですが。)、私がいたく感動したのは、「POTSUNEN」を観に行くまさにその直前に、私がたまたま手にした本の中に、「ぽつねん」という言葉を見い出したということなのです。

もしも、この日、私が、このお店に入らなければ、『檸檬』を手に取らなければ、改めて「檸檬」という掌編を読み返そうと思わなければ・・・。そう考えると、無数の偶然が重なりあって、この日、私は「ぽつねん」という一言に巡り合ったといえるのではないでしょうか。そして、私が「ぽつねん」という言葉を見つけ出したことは、もはや単なる偶然とは言えず、何かの縁、「運命」であったのではないかとすら思えるのです。大げさに言うと、ここに何らかの宇宙―神―の意思が働いているのではないかと・・・。いや、そこまで言うと、パラノイア(偏執狂)か何かじゃないかと疑われてしまいかねませんね(笑)

まあ、そういう、壮大な?話がしたい訳ではなく、何かこういった小さな偶然に出会ったとき、無性に幸せというか幸福感を感じません?!という(非常に個人的な小さい)お話なのです。

 

人間(ひと)は、無数の大小さまざまな偶然との出会いの中で生きているのだと思います。その偶然に出会って、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、笑ったりするのでしょう。その積み重ねが「生きていくこと」だと言い換えることができるかもしれません。その偶然の中の、何に喜び、何に悲しむかがその人を定義し、その人を形作ると言っても過言ではなく、そう考えると、「起きたことの全てが正しい」と、思わず、大した考えもなく無批判に全てを肯定してしまいたくなることもあります。とはいえ、世界で現実に起こっていることの全てを私が知っている訳でもなく、人ひとりの一生の全てを知り尽くした訳でもないので、そこまで人生達観できないですし、それ以上に、複雑でやっかいでどうしようもなく残酷で無情なのが人の世ですから、<無自覚>や<無批判>に全てを肯定することなく、ただただ、起きた「偶然」に驚き、心(喜怒哀楽)動かすことができれば、それが生きていることなのかなあ、と考えたりもします。

おっと、非常にパーソナルな小さな話から、また、思いもかけない大きな話になってしまいそうですが、ここは、「小さな偶然」への驚きの話で満足しきれない(「POTSUNEN」と「ぽつねん」繋がりの話でやめときゃあいいんですがね)、私の悪い癖と、ご容赦ください。「あんたの個人的な体験とかそれに対する感想とか話されてもねえ」という私の中にあるブログ一般に対する批判的な気持ちからか、嫌でも、無理でも、どうにか個人のパーソナルな体験の紹介や感想だけには留まらず、そこから何か一般化した教訓めいたお話を導いて終わらせようという、そんな浅はかな考えから出た、こじつけめいた結論に他なりません。

 

そのことに何ら特別な意味がある訳ではないのでしょうが、自分でもよく分からない「偶然」に出会ったことから、私としては、その「驚き」をどうしても他人に伝えたかっただけなのですが、もしかしたら、その「偶然」とか「驚き」とか、それって、「生きるってことそのもの」なのかも・・・なんて考えたり、考えなかったりした6月のとある週末でした。やっぱりパラノイアかなあ・・・。


 

 
追記:土曜日の晩、北九州で小林賢太郎の「ぽつねん」を観た後、翌日曜日の朝からは、新山口駅前のホテルで、岡山の弁護士竹内俊一先生を交えて、今年の11月9日(土)に開催を予定している「権利擁護支援フォーラムin萩」の打合せでした。このフォーラム開催のご案内はまた改めてこのブログで。

その帰りに山口市のブック・オフで『檸檬』を購入(105円)。今回の引用はこれに基づいています。
が、ネットの青空文庫でも、『檸檬』、ありました・・・。





追記2:梶井基次郎は、最初の作品集『檸檬』を刊行した翌年、31歳の若さで肺結核により没したそうです。

    ちなみに小林賢太郎は私と同じ4月生まれの私より一つ年下で、今年、ジョン・レノンが没した年齢の40歳。ちなみに松田優作とカフカが亡くなったのも40歳。

 

追記3:「パラノイア」:自らを特殊な人間であると信じたり、ある人から強く愛されている、隣人に攻撃を受けているなどといったひとつの異常な妄想に囚われる精神病の一型。強い妄想を抱いている、という点以外では人格や職業能力面において常人と変わらない。偏執病、妄想症。

2013年4月20日

少年と私とソクラテス

    今日、事件で重度の障害が残った少年と会って話をした。少年は、「こんな体になって生きているなら死んだ方がよかった。なんで生きているか分からない。」とつぶやいた。
   私は、答えに窮した。だけど、少年。私だって、なんで自分が生きているのかなんて分からない。けれども、少年も私も、今、生きている。生きているのだから、生き続けて、なんで死なずに生きているのかの答えを見つけようじゃないか。だから、少年。その答えを見つけるまでは、生き続けなければいけない。

2013年1月28日

新年のごあいさつ

 先日は、法人後見の承認の喜びで興奮してしまい、新年一発目の書き込みというのに、すっかりご挨拶を忘れておりました。
 改めまして、皆さま、平成25年もよろしくお願い致します。

 ちなみに、23日の承認後、1月25日に「一般社団法人 萩長門成年後見センター」を法人として成年後見人とする後見開始の審判が出ました。同センターの第1号の選任事件です。
 これから、身を引き締めて、社会福祉士さんと一緒に、同センターの事務局とも協力の上、一致団結して成年後見人の職務に当たって行きたいと思います。萩・山口法律事務所ともども、よろしくご支援ください。

 で、新年のご挨拶といえば、今年の抱負ですよね。
 昨年に引き続き、「ロックかロックでないか」をテーマに仕事をしていきたいとは思いますが、今年は、もう少し具体的なお話を。

 昨年末、私的な事情で早めに大阪の実家に戻りました。普段、こっちではテレビを観ることがほとんどないのですが、実家ですることと言えば、家でごろごろと寝て、テレビを見ることばかり・・・。実家に帰ったら時間があるだろうと、仕事を少しと、かなり分厚い小説を1冊持って帰ったのですが、どちらもなかなか手をつける気がしない。それで、深夜までテレビ三昧の日々。
 特に大阪は、年末、漫才などのお笑い番組が多く、昼間はお笑い番組、深夜は昔の映画の再放映です。
 そんな生活を送っている中、たしか、紅白の後でしたか、NHKで「プロフェッショナル」の再放送が3話くらい続けてやっており、全部見てしまいました。そこで登場された3人の方がおっしゃていた、それぞれのプロフェッショナルとは・・・。
 一人目の方は、「まずは、自分の仕事を楽しむこと。そして、たとえ小さなことでもいいから、常にチャレンジし続けること。」というようなことをおっしゃっていました。
 二人目の方は、「自分の出した結果でしか、人は自分を評価しないし、逆に、自分は、自分の出した結果でしか、人に語ることができない。」ということを話されており、そのようシビアな世界で生きていく「覚悟」を持った人がプロフェッショナルではないか、という意味のことをおっしゃっていました。
 三人目の方は、「手間を惜しまないこと。」を挙げられておられました。ほんのわずかな違いを修正したり、ほんのわずかな欠陥を修正して最善の状態に導くために、莫大な手間と時間が必要であるとした場合、大抵の人は、そのわずかばかりの違いを気にすることなく、そこに手間を掛けることをしないのではないでしょうか。しかし、その方法が最善と思うのであれば、惜しみなく時間と手間を注ぎ込むのが「プロフェッショナル」なのだと理解しました。
 ということで、この御3方の言葉を私の今年の抱負にしたい思います(安易)。

 弁護士という仕事は、人の悩みに接する重い仕事ではありますが、弁護士本人が悩んで落ち込んでも仕方ないし、それでよい方向に物事(事件)が向かうわけもないでしょうから、まずは「自分の仕事を楽しむ」こと。そして、現在の状況に満足せず、常にチャレンジし続けること。今の現状を一歩でも前進させようとチャレンジをし、また、これまでやってなかった新しいことにも挑戦すること。そのことが「仕事を楽しむ」ということにも繋がるのではないかと思いますしね。
 あと、やはり、この仕事、言うても結果が全てです。親切、丁寧、早い!安い!などと売り文句を幾ら並び立てても、あるいは、皆さまから幾らお褒めの言葉をいただいても、結果が出せなければ意味がないことは言うまでもありません。ですから、私としても、依頼者にとって最善と思える結果が出せることを一番の獲得目標として仕事をしています(その意味で、最初から、依頼者のご希望に添えそうにないと考える依頼については、その旨をしっかりご説明し、お断りしています。)。そして、本年は、より一層、「結果」にこだわり仕事をしていきたいと思います。ルーティンに陥ることなく、固定観念にとらわれることなく、常に自己の仕事内容を検証しつつ、改善の余地がないか、他に取りうる良い方法がないかを模索しながら仕事に臨む所存です。
 そして、そのためには、「手間を惜しまないこと」が一番大切だと感じています。何か気になったり、引っかかることがあったとき、そこを念のために調べてみるとか確認してみるとか、他人が勘違いしそうな表現(部分)や分かり難いかなと思う表現(部分)があった際に、それで良しとせず、改良を行うとか。そういった細部にこだわり、手間を惜しまず仕事をして行きたいと思います。少しニュアンスが外れてしまうかもしれませんが、「神は細部に宿る」という言葉があります。私は、この言葉を、たとえば建築デザインなどで、全体の大まかなデザインの優美さのみを追求するのでなく、骨組みの接合部分とか、そういった細部にもこだわってデザインに配慮した方が、結果、全体的な「美」に資するのであって、細部を考えないデザインは、全体として美しくないという結果に陥ってしまう、というような意味だと理解しています。細部にこだわらないデザインは、たとえ、ぱっと見の全体の「見た目」が良く見えても、結局、建築としては脆弱な、形だけのシロモノになってしまうのではないでしょうか(そして、やはり「美的」にも美しくないはずです。)。私の仕事でも、堅牢な建物を構築するかのような堅実な仕事をしようと思えば、細部にこだわり、「手間を惜しまないこと」が必要だと思いますし、私は、そのような仕事を心がけたいと思います。

 以上が、私の今年の抱負のようなものです。
 が、最後に一言(といっても、以下も長いですが)。
 「いい仕事をしたい」というのは、仕事をする以上、誰でも思う、ある意味当然のことであるかもしれません。ですが、そもそも仕事をするには、そのためのモチベーションが必要なのではないでしょうか。
 人はなぜ、仕事をするのか?
 それを言いだすと、答えの見つからない泥沼に足を踏み入れそうな気がします。それこそ、人はなぜ生きるのか?とか、人生とは何ぞや?とか・・・。まあ、そんな難解な哲学的な議論をするつもりはないのですが、昨年末、実家で深夜にやっていた映画の再放映を見ていて、そこでの主人公の台詞を聞いて、何となく、私の中で腑に落ちました(論理とか理屈でなく)。年末の深夜に放映されていた何度も再放映されている映画で、名作映画というわけでもなく、「ドクター・ドリトル」という、エディー・マーフィー主演のコメディ映画でした。それなりにヒットして、続編もたくさん作られた映画ではあるものの、こういった大衆娯楽映画はあまり私の趣味でなく、普段なら見ることはないのですが(いわゆる単館系のおされな映画専門です)、深夜、眠くもなく他に見る番組もなかったことから、徒然に見ておりましたところ(いや、これが意外に面白かった)、その中で、動物と話ができるようになってしまったドリトル先生が、脳の病気(腫瘍?)を患っている移動サーカスのトラを何とか助けてあげようと奮闘します。しかし、ドリトル先生は、一時、(動物と話ができると言ったことから)精神病院に入れられ、トラも世をはかなんで(かなり鬱のトラです)、どうせ人間が自分のことを助けてくれるはずがないと諦観し、死を覚悟します。そんな中、何とか精神病院を出てきたドリトル先生は、トラとの約束を守るために、サーカスのトラの檻のもとに駆けつけるのです。トラは、すっかり助かる望みを捨てており、ドリトル先生に、「何しに来たんだ、帰れ」と言います。それに対し、ドリトル先生はこう言います。「全世界では、いまこの瞬間にも、何千というトラが死んでいるかもしれない。そのトラたちの命を救うことは僕にはできない。でも、今、目の前に、君がいて、僕は君を助けることができるんだ。だから、僕は、君を助けに来た。」と。(すみません、正直にいいますが、晦日の深夜、かなりお酒を飲んで酔っ払っていたので、ここのところの台詞が確かか否か、記憶が定かではありません。ただ、お酒のせいだか何だか、この台詞に素直にグッときてしまったのは確かです。)
 私は、幸い、弁護士という資格を有して仕事をしており、「法律」を楯と武器にして、資格がなければできない特殊な仕事を請け負うことができます。そこに、困った人が目の前にいて、助けを求めており、私が弁護士という資格をもって、その困った人の助けになることができるというのであれば、私は、何とかその人の力になりたいと思います。全ての困った人の助けとなることはできないでしょうし、その気もないですが、そして、面倒な事件を他の誰かがやってくれるのであれば、できればその他の誰かにやっていただきたいと思うのですが、目の前に困った人がいて、助けを求めており、私にその人を助けることが可能であるのなら、私は、自分のなすべき仕事をしたいと思います。
  それが、私の仕事のモチベーションです。

2013年1月23日

祝!1・23

  私と社会福祉士さんとが一緒に、平成23年12月13日に設立した「一般社団法人 萩長門成年後見センター」ですが、本日、めでたく山口家庭裁判所から法人後見登録の承認を受けることができました。
 「一般社団法人 萩長門成年後見センター」は、弁護士と社会福祉士が力を合せて、協働して成年後見人の任に当たることを目的とした法人で、高齢者や障がい者の方の法人後見を行うために設立されました。法律の専門家である弁護士と福祉の専門家である社会福祉士が手を組んで一緒になって、法人で後見を行う組織というのは、たぶん、山口県では初の組織ではないかと思います。
 平成23年12月に設立して以降、「萩長門成年後見センター」を後見人の候補者とする成年後見の申立は行われていたのですが、法人が後見人に選任されるためには山口家庭裁判所の承認と名簿登載が必要であるということで、これまで実際の選任はまだでした。
 ですが、この度、山口家庭裁判所から承認を受けることができたとのことです。法人後見は、ずっと実現させたかったことなので、私にとっても、とても嬉しいことですし、今日という日は記念すべき日となりました。1月23日の大安吉日ということで、何となく縁起のいい、喜ばしい日です。
 もちろん、承認されただけではダメで、実際に選任されなければ意味がありませんし、選任された後に、法人として(社会福祉士と弁護士が連携して)スムーズに後見業務を遂行していかなければいけません。今日という日は、その始まりの1歩にすぎません。が、とにかく、1歩前に進んだことを、進められたことを、まずは喜びたいと思います。
 これから、萩長門成年後見センターを、萩長門圏域の後見を必要とされている方々のために、さらに前進・進化させて行きます。これからです!

2012年11月25日

ブック・カフェ

 これまでの書き込みで、音楽ネタが多かったように思われるこのブログですが、実は、あまり音楽に詳しいわけではなく、前回書いたように映画も好きなのは好きなんですが、最近あまり観ていないので、映画や音楽を「好き」と公言することは少々憚られます。
 が、本は好きで、仕事が忙しい中でも、常に読みかけの本はあって、時間があれば何かを読んでいますので(忙しいときは寝る前に少しだけとかになってしまいますが)、「本好き」は自信を持って公言できるのではないかと思います。ちなみに、映画と音楽と本に対して好きな順で順位を付けるとすれば、「1に文学、2に映画、3、4がなくて5に音楽」となります。ところで、1位が「本」でなく、「文学」という表記にしたのは、これは、語呂がよかったという理由と、「本」そのものでなく、「本を読むこと」が好きであるということを明確にする意味とがあるのですが、「本を読むこと」とは別に、「本屋巡り」も好きですし、「本を集めること」も好きではあります。
 「本屋巡り」ということで言えば、都市型の大型本屋さんも好きですし、小さな古本屋さんも好きで(商店街などにある町の小さな本屋さんはあまり好みではないです。商店街の本屋さん、がんばってるのにすみません。応援してます!)、出張や旅行の際には必ずといっていいほど本屋には足を運ぶのですが、萩で(数少ない)私が不満に思う点が、「本屋が少ない」ということです。図書館は、最近、とてもきれいで大きな図書館が新しく出来たので、この点はすごく良いことで、萩の自慢できることの一つだと思うものの、何でも揃うような大型の本屋さんと店主の趣味を前面に押し出したような個性的な古本屋さんがないのが残念です。「街の文化度はその街の本屋で決まる」というのは、私が勝手に作った言葉なのですが、萩で個性的な本屋さんか古本屋さんをする人が出てきたらいいなと常々思っています。願わくば、おしゃれなブック・カフェなぞできたら・・・。

  と、いうような思いが嵩じて、先日、ラ・セイバのマスターが出す野外カフェに私が選んだ本を勝手に置かせてもらいました!1日限りの企画(『アルテコ』というアートとエコの祭典でした。もっとも、『アルテコ』自体は、今後も2回、3回と続けていくそうです。)のなんちゃってブック・カフェでしたが、古本屋さんの店長になったような、とても楽しい気分を味あわせていただきました。ラ・セイバのマスター、ありがとうございます。
 私の場合、本はほとんど文庫版で読んでいて、蔵書のほとんどが文庫本なので、私が持っている本を並べて置くだけではあまりぱっとしないだろうと、この企画が行われると聞いた時から私の気になる写真集や絵本などを購入して、この日に臨みました。急あつらえだった割には、何となく、イメージするおしゃれブック・カフェになったのではないかと思います。

  その時の様子を。


   楽しみの読書もままならない最近の忙しさでしたが、秋空の中、好きな本に囲まれて美味しいコーヒーをいただき、気分も一新、また、仕事にがんばれそうです。

2012年11月21日

知性を操る

 久しぶりの書き込みとなります。

 先週17日(土)に、防府市で開かれた「見える事例検討会」に参加してきました。成年後見制度に係る困難事例をマインド・マップを使って検討するという事例検討会なのですが、会の詳しい説明は他のところでも書いているので、ここでは紹介いたしません。興味がおありの方は、
          http://suzukitakae.com/mierujirei/
をご参考に。
 その会で、講演をされた講師の先生が、最後に、「これからは知識を操る時代ではなく、知性を操る時代だ」というようなことを言われていました。どこかの外国の教授か研究者の言葉だそうですが、その方の名前も聞き漏らしてしまいましたし、引用も正確なものでないかもしれません(すみません・・・)。
 ですが、今回はこの言葉について考えてみたいと思います。

 「知識を操る」というのは、知識を収集して、それを発表したり、何かに適用したりすることだと思うのですが、「知性を操る」というのは、要するに、自分の頭で考えるということだと思います。この「自分の頭で考える」というのは、受験勉強や経営者向けセミナーやサラリーマン出世術など、いろんなところで割とよく言われることではあるものの、実際のところどういうことか?と問われると、なかなか答えるのが難しいのではないでしょうか。

 その昔、私が大学生のころ、映画に嵌まった時期が一時期ありまして、映画評論家の蓮實重彦氏の映画評論を読んでは、そこで紹介されている映画を(DVDでなく)ビデオで借りて観たり、単館上映の映画館に観に行ったりとしていました。もちろん映画も好きだったのですが、蓮實氏の映画評論自体が面白く、映画評論以外の本もちらほらと読んでおりました。そんな中に、「理解するということは、実は、誰にでもできる一番簡単なことだ。」というようなことが書かれてあったのに、いたく感銘を受け、心に残っております。とはいえ、正確にどのような言葉で書かれていたのか、出典が何という本であったのかも覚えていません。実は、これを書く前に、いくつか自分の持っている本をあたってみたのですが、上記のようなことが書かれている本は見つかりませんでした(すみません・・・。なんか、今回は全部あやふやな記憶に基づいて書いて、申し訳ないです。)。
 その意が正確かどうかは分かりませんが、たとえば、ある人の思想を理解しようと思ったところ、「こうこうである」という説明がされていれば、その思想が「こうこうである」ということは、それを読めば誰でも「分かる」のであって、そのこと自体は全然難しいことではなく、誰にでもできる簡単なことである、ということなのではないかと思います。このような意味で「理解する」ということは、誰かによって既に一度考えられ、言葉にして説明されたことを、そのまま正確にたどって再現することに過ぎないのであって、決して難しいことではない、本当に難しいのは、「自分の頭で考える」ことだと・・・。
 と言っても、やっぱり、「自分の頭で考える」というのがどういうことかは分かりませんね。

  そこで、もうちょっと自分の本棚を探してみたところ、蓮實氏の著作で私が見つけた本の中に、「何かを理解することと『何かを理解したかのような気分』になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっている」という記述がありました。上記で私が書いたように、新聞などで「こうこうである」という説明がされていて、それを読んだ人が「こうこうである」と「分かる」というのが、実は、「何かを理解したかのような気分」になることだと思います。世の人は「何かを理解したような気分」をはば広く共有することで安堵感を得るのですが、このように、人は、程よく納得した、何となく理解したような「気分」に安堵して、対象を詳細に分析したり、検証したりという手続を必要としなくなります。これに対し、本当に「理解する」ということは、「知性を駆使した分析と総合」であると蓮實氏は述べます。
 はあ、これでもやっぱりよく分かりませんね。

 しかし、冒頭の「知性を操る」というのと「知性を駆使する」というところで、何となく共通点が見い出されたように思えます。要するに、「自分の頭で考える」というのは、知性を操ったり、駆使したりすることだと言えるのでしょう(これも、程よい納得、「何かを理解した気分」?)。
 

 さて、それで、今回のブログで何が言いたいのかといいますと、成年後見制度を巡る、高齢者の虐待などの様々な問題が絡んだいわゆる困難事例の相談が私のところにも多く寄せられるのですが、知識や情報を操るだけでは解決できない難しい問題が数多くあって、そのような場合、知性を操り、駆使しなければ、到底、問題解決に導けないのではないか、逆に言えば、知性を操り、駆使することをすれば、そのような困難事例も何とか解決に導くことができるのではないか、そういった意味で、「知性を操る」というのは、困難事例の相談を受ける我々にとって、肝に銘ずべき、実にいいフレーズだなあ、と思う、ということなのです。

 あ、なんか、すごい、「気分」で話してますね。「知性を操る」というフレーズを口にすることで安堵してしまって、本当に自分の頭で考えて話してるか疑問ですね。ダメですね。
 しかし、まあ、「考え」が言葉で記され、説明された以上、既に「知識」「情報」になってしまっているのですから、もとより、このブログでの駄文が「知性を駆使している」と評価されることはあり得ないのかもしれません。あくまで日々の行動・実践の中でこそ、「知性を操る」ことが可能なのでしょう。
 ・・・日々の行動と実践。成年後見制度を巡る困難事例ならずとも、依頼者からの相談案件に対してはすべからく、日々全力で、知性を操り、駆使して、問題解決に当たることを肝に銘じます。
 

2012年8月13日

ロンドン五輪

 男子20キロ競歩で、グアテマラのエリック・バロンド(21歳)が2位に入り、銀メダルを獲得。中米の小国グアテマラに初の五輪メダルをもたらした。
 自国の治安の悪化を心配するバロンドは、「この銀メダルが子供たちに勇気を与え、銃やナイフを置いて代わりにトレーニングシューズを手に取ってくれればいい。そうなったら自分は世界一の幸せ者だ。」と語った、とか。