2012年11月21日

知性を操る

 久しぶりの書き込みとなります。

 先週17日(土)に、防府市で開かれた「見える事例検討会」に参加してきました。成年後見制度に係る困難事例をマインド・マップを使って検討するという事例検討会なのですが、会の詳しい説明は他のところでも書いているので、ここでは紹介いたしません。興味がおありの方は、
          http://suzukitakae.com/mierujirei/
をご参考に。
 その会で、講演をされた講師の先生が、最後に、「これからは知識を操る時代ではなく、知性を操る時代だ」というようなことを言われていました。どこかの外国の教授か研究者の言葉だそうですが、その方の名前も聞き漏らしてしまいましたし、引用も正確なものでないかもしれません(すみません・・・)。
 ですが、今回はこの言葉について考えてみたいと思います。

 「知識を操る」というのは、知識を収集して、それを発表したり、何かに適用したりすることだと思うのですが、「知性を操る」というのは、要するに、自分の頭で考えるということだと思います。この「自分の頭で考える」というのは、受験勉強や経営者向けセミナーやサラリーマン出世術など、いろんなところで割とよく言われることではあるものの、実際のところどういうことか?と問われると、なかなか答えるのが難しいのではないでしょうか。

 その昔、私が大学生のころ、映画に嵌まった時期が一時期ありまして、映画評論家の蓮實重彦氏の映画評論を読んでは、そこで紹介されている映画を(DVDでなく)ビデオで借りて観たり、単館上映の映画館に観に行ったりとしていました。もちろん映画も好きだったのですが、蓮實氏の映画評論自体が面白く、映画評論以外の本もちらほらと読んでおりました。そんな中に、「理解するということは、実は、誰にでもできる一番簡単なことだ。」というようなことが書かれてあったのに、いたく感銘を受け、心に残っております。とはいえ、正確にどのような言葉で書かれていたのか、出典が何という本であったのかも覚えていません。実は、これを書く前に、いくつか自分の持っている本をあたってみたのですが、上記のようなことが書かれている本は見つかりませんでした(すみません・・・。なんか、今回は全部あやふやな記憶に基づいて書いて、申し訳ないです。)。
 その意が正確かどうかは分かりませんが、たとえば、ある人の思想を理解しようと思ったところ、「こうこうである」という説明がされていれば、その思想が「こうこうである」ということは、それを読めば誰でも「分かる」のであって、そのこと自体は全然難しいことではなく、誰にでもできる簡単なことである、ということなのではないかと思います。このような意味で「理解する」ということは、誰かによって既に一度考えられ、言葉にして説明されたことを、そのまま正確にたどって再現することに過ぎないのであって、決して難しいことではない、本当に難しいのは、「自分の頭で考える」ことだと・・・。
 と言っても、やっぱり、「自分の頭で考える」というのがどういうことかは分かりませんね。

  そこで、もうちょっと自分の本棚を探してみたところ、蓮實氏の著作で私が見つけた本の中に、「何かを理解することと『何かを理解したかのような気分』になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっている」という記述がありました。上記で私が書いたように、新聞などで「こうこうである」という説明がされていて、それを読んだ人が「こうこうである」と「分かる」というのが、実は、「何かを理解したかのような気分」になることだと思います。世の人は「何かを理解したような気分」をはば広く共有することで安堵感を得るのですが、このように、人は、程よく納得した、何となく理解したような「気分」に安堵して、対象を詳細に分析したり、検証したりという手続を必要としなくなります。これに対し、本当に「理解する」ということは、「知性を駆使した分析と総合」であると蓮實氏は述べます。
 はあ、これでもやっぱりよく分かりませんね。

 しかし、冒頭の「知性を操る」というのと「知性を駆使する」というところで、何となく共通点が見い出されたように思えます。要するに、「自分の頭で考える」というのは、知性を操ったり、駆使したりすることだと言えるのでしょう(これも、程よい納得、「何かを理解した気分」?)。
 

 さて、それで、今回のブログで何が言いたいのかといいますと、成年後見制度を巡る、高齢者の虐待などの様々な問題が絡んだいわゆる困難事例の相談が私のところにも多く寄せられるのですが、知識や情報を操るだけでは解決できない難しい問題が数多くあって、そのような場合、知性を操り、駆使しなければ、到底、問題解決に導けないのではないか、逆に言えば、知性を操り、駆使することをすれば、そのような困難事例も何とか解決に導くことができるのではないか、そういった意味で、「知性を操る」というのは、困難事例の相談を受ける我々にとって、肝に銘ずべき、実にいいフレーズだなあ、と思う、ということなのです。

 あ、なんか、すごい、「気分」で話してますね。「知性を操る」というフレーズを口にすることで安堵してしまって、本当に自分の頭で考えて話してるか疑問ですね。ダメですね。
 しかし、まあ、「考え」が言葉で記され、説明された以上、既に「知識」「情報」になってしまっているのですから、もとより、このブログでの駄文が「知性を駆使している」と評価されることはあり得ないのかもしれません。あくまで日々の行動・実践の中でこそ、「知性を操る」ことが可能なのでしょう。
 ・・・日々の行動と実践。成年後見制度を巡る困難事例ならずとも、依頼者からの相談案件に対してはすべからく、日々全力で、知性を操り、駆使して、問題解決に当たることを肝に銘じます。